スケッチブックを離さない

 

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Alien

 

体験でみんな知っている、映画は監督で選ぶと、ほぼハズレがない。コーエン・ブラザーズの「ファーゴ」「ノー・カントリー」、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」「シャイニング」、アレハンドロ・イニャリトゥの「バードマン」「リヴェナント」、そしてリドリー・スコットの「ブレード・ランナー」「エイリアン」、その他、クリント・イーストウッドマーティン・スコセッシウディ・アレンリュック・ベッソンなど、監督目当てで観たくなる。

 

そこで、監督の人柄とかに興味が湧く。アートディレクションが素晴らしいリドリー・スコットはどうか。前から気になっていた。

 

リドリーは、ロンドンの難関の王立アートスクールを卒業してBBCにデザイナーとして入った。それから「すぐに独立して、順調にいった」と本人が言うように、とても優秀だったようだ(弟のトニーは、一浪後に兄と同じアートスクールへ)。

 

優秀な美大生兄弟の父は、軍隊の技術者だった。転勤が多く、兄弟はどこへ行っても転校生だった。友達がいない二人の手には、いつもスケッチブックがあり、白い紙に向かって思いをぶつけていた。美大では、毎日真っ白なスケッチブックを開いて、絵で埋め尽くして1日が終わる。「これほど幸せに満ちた素晴らしい時間はなかった」と、リドリー。キューブリックの「2001年」を観て、映画監督への進路を決めた。リドリーがスケッチで描いた製鉄都市が、その後の映画「ブレード・ランナー」の街のモチーフになった。

 

父親が滅多にいない家庭では、いつもイライラしている母親がボスであり、彼女の言葉は常に命令だった。夫は贖罪のように、妻がシャネルやジバンシーが毎週でも買えるくらいの生活費を与えていた。兄弟は母親から美的センスを学んでいった。そして、強い女性への憧れも。だから、リドリーの映画に登場する女性は強い。「エイリアン」ではエイリアンを撃退するシガニー・ウイーバー、「テルマ&ルイーズ」では男をぶっ殺す二人の女性、「G.I.ジェーン」では海兵隊刈りのデミ・ムーアなど。申し合わせたように、弟トニーの監督作品「トップ・ガン」では、強い女性士官ケリー・マクギリスがトム・クルーズの前に現れる。

 

リドリーは、南仏、ビバリーヒルズ、ロンドンに家を持っている。ロンドンの6階建て邸宅に住み込んだハウスキーパーが書いた本があり、リドリーがどんな人か、少しだけわかる。それにしても、個人情報のダダ漏れは、いいのか。リドリーとの契約で、家計費以外はオープンにしていいと、取決めをしていたようだ。

 

全ての家具、水道栓、シャワーの蛇口、家の外のゴミ箱の蓋まで、純金や銅製。「18Kでなくてもいいのでは」と息子に言われ「偽物を周りに置きたくない」とリドリーは答えた。引き出しやクロゼットの取っ手に触れると、指紋がつくので、毎日4時間以上かけて拭き取る掃除専門の使用人がいる。その他、(公園のような広い庭の)庭師、窓拭き、完璧な仕事をこなす王室御用達のペンキ屋が、1年に8ヶ月通ってくる。使用人が家の中に入るときは、汚れを嫌い、日本家屋のように勝手口で靴を脱がす。リドリーの口癖は"spotless(シミひとつない)"が好きだ。

 

ハウスキーパーは「彼は完璧主義者だ」と言い、下着などを部屋に脱ぎ散らかす次男のルークは、そんな父親を「クレージー」と言う。しかし、他人に厳しいだけでなく、リドリーは、長期のロケ先から邸宅に帰ると5分後には、まず勝手口の庭の掃除から嬉々として始め、枯れ葉を集め、4つのゴミ箱の蓋を手で丁寧に水洗いし、金の取っ手をピカピカになるまで磨く。その後、地下1階から4階まで、自分の部屋の家具を移動し、雰囲気を変えて楽しんでいる。他の英国紳士同様、”家は城だ”という考えを徹底しているようだ。

 

ハウスキーパーに対しては、使用人を見下した態度で命令はしない。役割をリスペクトした英国紳士らしい振る舞いだそうだ。住み込みのスペースには、居間、寝室、台所、バストイレが整っていた(多くのユダヤ系の富裕家庭では、使用人に寝室1室がざらだった)。月給は20数万円、有給休暇は年1ヶ月、週休1.5日、病気になれば、国が無料で治療してくれる。文句はない。不安もない。

 

恵まれた環境にいてもハウスキーパーは「リドリーの完璧主義は、頭痛の種」と言っていたが、母親の影響を受けて美意識が高く、少々潔癖症というくらいではないかと思う。完璧主義者は、大げさだ。次男の「オヤジはクレージー」が正しいように思う。

 

興行成績がすべての映画会社には、口うるさい投資家や、強引なプロデューサー、鉄壁のマーケターがいる。30秒の製作費が1億円と聞いて、リドリーが不眠症になった広告業界には、わがままな広告主、プライドの高いクリエイター、データで身を固めたマーケターがいる。批判を許さない完璧主義者には、打ちのめされる環境が整っている。(「雲の形がよくない」と撮影を中止していた、甘やかされていた完璧主義者の黒澤明監督は、ハリウッド映画では降板させられている)。

 

リドリーがどうして”自分の城”を必死に守ろうとしていたのか。滅多に家に帰らなかった(後に船舶会社役員の)父親の轍は、踏みたくないという意志が働いているのではと思う。家庭らしい家庭をつくりたい。毎朝7時20分に起床し、毎夜8時に次男と夕食をとる”家のルール”にも、その意志が表れている。

 

絵の好きだった少年の空想力が、いかんなく発揮されているCMがある。ヘネシーX.Oのテイスティング委員会が作成した"7つの世界へのオデッセイ"(甘美、熱、高揚、刺激、炎、凪、蒼森)が、饒舌に描写されている

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CMの最高傑作と評されるリドリーのアップル「1984」は、目にタコ状態なので、リドリーらしい美意識の「シャネル#5」。”空想をシェアしたい”コンセプトが魅せる:

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母子家庭の二人は、兄弟仲がよかった。トニーが王立アートスクールを卒業した時「BBCには入るな。僕の会社に入れば、1年後には君の好きなフェラーリに乗れるようにしてやる」と言い、約束を果たした。ドキュメンタリー作家になりたかったトニーは(報道のBBCに本当は入りたかったが)、兄の勧めに応じコマーシャルの監督になった。作風が兄に似ている。その一つが、スエーデンのSAAB。放映を見た映画プロデューサーが、トニーを「トップ・ガン」の監督に抜擢した。戦闘機をかっこよく撮影した映像がすでにここにある。

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トニーは、2012年8月68歳、ハリウッド郊外の橋のそばに車を止め、投身自殺をした。目撃者によると、何のためらいものなく、橋からジャンプしたそうだ。原因は不明。冥福を祈念。

        (※参考図書 高尾慶子著「イギリス人はおかしい」、その他ネット調べ)

偶然は素敵③

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©︎usa today

ある昼下がり、人生が変わった男がいた。

 

製紙会社をクビになった27歳の男は、妻にどう切り出そうか迷っていた。自宅に戻り、地下の家事室に通じる階段に座り込んで、洗濯物をたたむ妻の後ろ姿を見ていた。

 

階段上の彼に気づいた妻は「お仕事はどうだった?」と言葉をかけた。「会社を、クビになった」と言うのが精一杯だった。妻はまぶしそうな目で、彼を見上げ「ま、次になにかあるわよ」と言って、何もなかったように、洗濯物の片付けを続けた。

 

「どうしてクビになったの?」「これからどうするの?」答えを準備した質問はなかった。夫が、ひっくり返ろうが、すごいショックをうけていようが、妻は洗濯物を片付ける作業を優先しているように見えた。

 

その時、彼は、妻がとても大きなことを教えてくれていたような気がした。彼女は、失敗を許してくれている。男のプライドという”ビル”が倒れたのに、女の大地からはホコリも立たない。「誰も完璧じゃない。失敗してもいいんだ」ということを知った。

 

人よりミスをしないようにするために教育があると思っていたが、まったく間違っていた。ミスをしない人間に学びはない。ミスを恐れていたら、人の成長が止まる。

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彼が広告会社をつくったとき、数千の押しピンで字を描いた"Fail Harder(思いっきり失敗しろ)"。これを成長するための社是にした。

 

いくら妻に気づかされたと言っても、”大失敗”というギャンブルから学ぶ広告会社もいいが、とりあえず成功イメージの広告会社を、クライアントは選ぶのではないか。隣に"Do It a Little Better(少し良くします)"というスローガンを掲げた会社ができたら、競合の厳しさを知る経営者なら、こちらを選ぶのではないか。

 

この失敗しそうな広告会社の社長は、ダン・ワイデン。彼の父は、デューク・ワイデン。ポートランドの名士で、コカコーラなどを扱う大きな広告会社を経営していた。

 

実は、息子ダンが会社を設立する10年前の1972年に、彼の父デュークは、フィル・ナイトの訪問をうけていた。日本のオニツカタイガーとの契約を解消し、自社製品もなく、ナイトの会計士としての収入を会社経営に充てていた最悪の時代だった。しかし、ブランド名NIKEロゴマークも決まり、それらを世の中に広める広告会社がどうしても必要だった。デュークは「販路をもう少し整備してから、もう一度うちに来てくれれば考える」と、やんわりと取引を断った。

 

それから10年後の1982年、マッキャン・エリクソンで出会ったデイビッド・ケネディと組んでワイデン&ケネディを設立。得意先を必死に探していた二人にとって、話題のワッフル底のスポーツシューズで、勢いをえたポートランドのナイキは、垂涎のターゲットだった。

 

二人は、ナイキのセールス・ミーティングにもぐり込み、ナイトに会社最初のクライアントになってほしいと頼み込んだ。運が良かったのは、デュークに取引を断られた後、依頼したシアトルの広告会社のサラリーマン・クリエイターの仕事に、ナイトはとても不満だった。

 

ワイデンの”失敗を恐れない”社是には、ナイトは1ミリも動かされなかったが、意欲的なところに惹かれた。この後、彼を門前払いした父親を許し、その息子の会社と取引するナイトの凄さを、ワイデンは知ることになる。

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ナイトの最初の言葉は「私は、フィル・ナイト。広告を信じない」だった。

 

2つの理由があった。①私は数字がすべての会計士でもある。広告はただの経費②ナイキをこよなく愛しているセールスマンの私を超えるコンテンツはない

 

また「広告は売れた商品をさらに売るためにある」とも言い、「商品力に勝る広告はない」という持論は、ワイデンに広告を任せても変わらなかった。

 

80年代中盤、ナイトがワイデンに出会って数年後、赤字決算を続けたナイキに奇跡が訪れた。空力テクノロジーを実用化した”NIKE AIR"の開発に成功。3カ国で原材料を調達することが求められるなど、社内でも実用化が困難とされた商品だった。クッションが可視化できる機能的なエアクッションが、バスケットボールはもとより、街のカジュアル・シューズとしても、スポーツクラブのフィットネス・シューズとしても幅広く人気を集め、世紀の大ヒット商品になった。

 

他を圧倒する弾力性のために、NBAが使用禁止措置を発表。CMに起用したマイケル・ジョーダンが、禁止処分を無視し、使用し続けた。このため、試合ごとに罰金を課せられた。ナイキがその罰金を肩代わりした。これもまた話題になった。

 

広告に懐疑的なナイトに、ワイデン&ケネディの制作ぶりは、どう映っていたか。ナイトによると「昼夜時間を問わず、彼らは、徹底的に商品を分析し、探求し、商品インサイト、スポーツマンの人間性、感性なども研究し、テーマとメッセージを導き出していた。彼らのこの態度は、商品開発に挑む我々の態度と共通するものがあり、とてもいいケミストリーだった」。

 

「テクノロジー人間性と結びついたとき、心を震わすようなものが生まれる」とスティーブ・ジョブズが言っているが、ワイデンの制作スタッフはこのことにも気づいていて、ナイキのブランドCMの核心に取り込んでいた。

 

ワイデンが社員に求める”失敗を恐れない大胆な発想”というより、真逆のギャンブルをしない、科学的で繊細な制作態度だった。

 

むしろ、死刑囚ゲリー・ギルモアの"LET'S DO IT(やれよ)"にヒントを得て、"JUST DO IT(やるしかない)"を、ナイキの企業スローガンとして提案したワイデンだけが、”失敗を恐れない大胆さ”に挑んでいた。

 

一方、ナイトにとっては、死刑囚の言葉であろうがなかろうが、的確にスポーツ・スピリットを伝達できればよかった。ナイトが、起業の日に自らに言い聞かせた"Just Keep Going(前へ進むしかない)"行動を喚起する言葉と同様の力を、ワイデンのコピーに感じていた。世界で最も記憶されるスローガンが生まれた。

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マイケル・ジョーダンのレジェンドCMとか、ナイキのブランドイメージを高めたCMはたくさんある。しかし、このナイキのコマーシャルを見たとき、最初の1秒で、最後がわかる、なんと予定調和のつまらない広告だと思った。しかし、スポーツシューズに惹かれたナイトの人生を知ったいま、実はこのCMで走っている少年は、早い走者の背中を見て走っていたナイト自身だと思うようになった。そして、”Find Your Greatness(あなた自身の中に偉大さを発見しよう)”と言うコピーにこそ、スポーツシューズを人に薦めるナイトの気持ちが表されている。

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放映後、肥満児を走らせたCMの暴力だと抗議されたが、少年は「このCMの後、6ヶ月で16キロ減量したけど、僕のライフスタイルは変わっていない」と意に介していなかった。

 

アメリカ文化の心臓には、スポーツの血が流れている」とナイトは言い「プラスティックやゴムの塊の販売によく情熱を燃やせると人に言われるが、タバコやビールの販売だと、私はこうも情熱的にはなれなかった」とも言う。

 

アメリカの問題は、たくさんの失敗をしたことではなく、失敗が少ないことだ」とナイトが言うと、失敗自慢でワイデンが応える。ワイデンはナイトの隣人になり”パーティの距離”になって40年経っている。陽気なワイデンの妻も、ホームパーティに招かれていることだと思う。

 

「ハードワークは必須、いいチームは肝要、頭脳と決断力は貴重であり、結果は運がつくり出す」と、”偶然を幸運に変えられる才能”に恵まれたナイトは述懐する。冷徹なビジネスマンの父親デューク・ワイデンに門前払いされながら、熱意の息子、ダン・ワイデンを受け入れ、幸運を呼び込んだナイトには”セレンディピティ”がついている。

 

      (※出典資料は、"Harvard Business Review""Washington Post"など)

 

偶然は素敵②

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shortform.comより引用

(前号より続く)

1年以上経ってようやく、アメリカ人向けのシューズが2足届いた。今までで最高の履き心地だと、ナイトは思った。

 

さっそく、オレゴン大学のバワーマンにプレゼントした。彼の目にかなったら、陸上部の公式シューズにしてもらい、新会社の新製品にしたいという下心もあった。

 

ところが、バワーマンは、プレゼントにダメ出しをした。ダメ出しのメモとともに、ナイトに握手を求め、一緒に会社をやろうと提案した。1964年、ブルーリボン・スポーツ社(オニツカタイガーの米国西海岸の特約販売の会社)が始動した。

 

起業の朝、ナイトが心に誓ったことは「とにかく進むしかない。止まるな。ゴールは設定しない。倒れたところがゴールではない」と、がむしゃらに先に向かった。後に生まれる企業スローガン"JUST DO IT(やるしかない)"は、この時、ナイトの心に種子を宿した。

 

起業第1日目から、プリムス・ヴァリアントにオニツカタイガーを積んで、陸上競技場の横に駐車して、セールスした。ナイトの気持ちを動かしていたのは「バイトで、百科事典や投資信託を売ったが、心は何も感じない鉄の塊だった。一方、靴を売ることはまったく違う。人がこの靴を履いて、毎日数キロ走ることで、世界は住みやすいところになる。自分の能力以上のものを発揮できる。そう信じる私の気持ちを買ってくれていると思えた」。

 

”走る科学者”バワーマンには、新しい目標が生まれていた。陸上トラックが、記録向上のため、土からアンツーカーに敷き変えられることになっていた。従来のスパイクのついた靴は、ウレタンを痛め、使用禁止になる。まったく新しい靴底のスポーツシューズが求められていた。

 

バワーマンも、工夫力では鬼塚に負けていなかった。ワッフルを朝食で食べながら、ワッフルの凸形をした靴底なら鋲のスパイクが必要でなくなると考えた(鬼塚の凹形の”タコの吸盤”の発想を逆転し)スポーツシューズ史上最高のヒット商品”ワッフル・トレイナー”が誕生した。

 

”ワッフル・トレイナー”が誕生するまでは、二人の会社は、今日のパンはあるが、明日はないという自転車操業だった。ベンチャー企業への投資・育成として支援したのが、日本の商社、日商岩井(現・双日)だった。ポートランド支社の皇(すめらぎ)孝之は、ナイトの会社に目をつけたが「連中は、陸上部出身者で、朝から晩まで靴の話。失敗してもへこたれず、試行錯誤を繰り返す。この情熱は何かを変える、化けるかもしれないと、百に三つの確率を追いかける商社マンの勘に頼った」と述懐する。

 

皇の後任者(経理出身ゆえに、数字が全ての”アイスマン”とナイトから呼ばれていた)伊藤は、本社に無断で、ブルーリボン・スポーツ社の億単位の借金を肩代わりして、倒産の危機から救った。このため、伊藤は解雇され、家具を片付け帰国支度をしていると、本社の担当役員から烈火の電話があり、最後に小さな声で「よくやった」と言われた。同じ商社マンとして担当企業を身を張って守った、出来ないことをやった男への賛辞だった。伊藤は泣いた。

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革命的シューズ発売の数年前、1971年、オニツカタイガーとの契約を解消した。オニツカタイガーとの関係が断たれたのは、米国に進出したオニツカタイガーが、ナイトとの契約を無視して、西海岸でも販売し、並行輸入品より我々の商品の方がいいと、ナイトの売り込んだ商品を店頭から排除し始めたので、提携関係を解消した。ブルーリボン・スポーツ社にとって、自立独立しか選択肢はなく、NIKEへ社名変更した窮余の一策だった。

 

周知の事実だが、ギリシャ勝利の女神になぞらえたNIKEを提案したのは、ナイトの陸上部の友人で、NIKE最初の社員、ジェフ・ジョンソンであり、有名なロゴマークは、グラフィック・デザインの学生キャロライン・デビッドソンに、35ドルの制作費(後年、NIKE社の数百株を贈る)を払ったもの。

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1980年代には、スポーツシューズ市場のシェア50%を占め、世界一になって今日に至る。

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偶然を幸福に変えられる”セレンディピティ”の才能があるナイトには、恩を忘れないという大切な資質もあった。彼は、日商岩井の支援なしには、今日のナイキはないことを、全社員に知ってもらうために、オレゴン州ビーバートンの本社には、日本庭園”NISSHO-IWAI GARDEN”を造っていた。

 

ナイトが自叙伝を、皇(すめらぎ)に謹呈した時の返礼「私の孫が、将来この本を読んで、”おじいさんは、世界一の企業のお手伝いをしたと知ってくれればうれしい”」皇のつつましく誇らしげな言葉に、ナイトの目から涙があふれた。

 

(資料はインターネット調べ、およびbsNHK「ナイキを育てた男たち〜"SHOE DOG" とニッポン〜」)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偶然は素敵①

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Phil Knight & Bill Bowerman

「ふとした偶然をきっかけに幸運をつかみ取る才能」を”セレンディピティ”という。(※wikipedia)

 

セレンディピティの男がアメリカにいた。そして、彼は、スポーツシューズをこよなく愛していた。

 

1950年代のアメリカでは、”走るのは、急いでいるとき”であり、”健康のため、運動のため”という理解は、まだ根づいていなかった。

 

街を走る人に対しては、(そんなに急いでるんなら)「馬を買え」と家の窓から罵声。いったいそんなことをして何になるんだというのが、ふつうの考えだった。ましてや、下着のようなパンツ姿で街を走っていたようにも見え、街のお母さんたちは、子供の目を手でおおっていた。

 

そんな頃、オレゴン大学の陸上部にいたのが、フィル・ナイトという学生だった。高校生の頃、8キロ走ってバイト先に通っていたこともあり、走るのが得意だと自分では思っていた。しかし、きゃしゃな体つきの彼は、体力差のある競争相手には、どうしても勝てなかった。

 

そんな彼を救ったのが、ユニークなコーチ、ビル・バワーマンだった。走るフォームよりも、シューズの改良に熱心に取り組んでいた変なコーチだった。選手に違うシューズを次々と履かせて、実験を繰り返していた。体格に恵まれていなかったフィル・ナイトは、彼のギア改良に興味を持った。

 

大学卒業で、”趣味の走り”は終わった。ジャーナリズム学部を卒業したこともあり、父の経営する地方の小さな新聞社へ入ることを考えたが、決心がつかず、1年間の兵役に。

 

その後、彼の心に引っかかっていたものを整理するために、スタンフォード大学院のビジネススクールに入り、論文を書いた。(当時は、ドイツのアディダスが、スポーツシューズの世界を席巻していたこともあり)「日本のスポーツシューズは、(世界最高峰のドイツのカメラを駆逐したように)、ドイツのスポーツシューズを追い抜くか」という彼の推論が、人生を決めることになる。

 

ナイトは、バワーマンが求めているものは、この論文の中にあると思った。誰の手にも入る廉価で、最も優れたスポーツシューズを広めたいと、ナイトは考えるようになった。

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海を越えた日本にも同じ思いを持った鬼塚喜八郎という男がいた。日本にはスポーツシューズ製作のノウハウもなく、その分、彼の創意工夫が全てだった。ゴム工場で働き、ゴムの特性を学ぶことから始めた。

 

1908年、コンバースが世界初のバスケットボールシューズを作り、成果をあげていた。鬼塚は、そのことを知ってか知らずか、日本独自のものを作ろうとしたようだ。フロアへのグリップ力を求められる動作を可能にするため、きゅうりの酢の物のタコを見て、靴底に吸盤をつけることを考えついた。しかし、吸引力が強すぎて転倒・負傷者が続出して失敗。ある時、乗っていたタクシーが急ブレーキをかけて止まった瞬間、鬼塚はひらめいた。自動車ショーに出かけ、車のタイヤの模様「煉瓦積みブロック」パターンを靴底に取り入れて、日本初のバスケットボールシューズを開発。50%の市場シェアを獲得した。

 

1953年には、”足の豆ができて一人前”と言われていたマラソンランナーの足の豆をなくすために、発熱した足をクールダウンする穴あき靴「マジックランナー」を考案。1956年以降、日本五輪の公式シューズとして、オニツカタイガーは認定された。

 

1962年、ナイトは、日本に旅行して、吸い寄せられるように鬼塚喜八郎のいる神戸に向かった。そして、ドイツを追い抜くmade in Japanだと確信した。最良の、そして誰でも買えるスポーツシューズを求めるナイトの情熱は、鬼塚喜八郎を動かした。初対面のアメリカ人に、西海岸の販売権を与え、ナイトが求める体格のいいアメリカ人仕様の製品を新たに作ることを約束した。

 

最初の会議で、オニツカタイガーの役員が「ミスター・ナイト、(まさか、ウチから輸入販売されるのに個人の資格でおっしゃっているわけはないと思いますが)あなたが所属する会社名を教えてください」と問われ、とっさに「(かつて出場した競技会の名前)ブルーリボン・スポーツ社」と嘘を言った。米国に帰って、ナイトは、早速Blue Ribbon Sports社を登録することになる。

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バワーマン、鬼塚、スポーツシューズに情熱的に取り組む世界でも稀有な二人。探してもそう簡単に遭遇できるものではない。

 

偶然を幸運に変える”セレンディピティ”の才能を、ナイトに感じる。

 

しかし、偶然を幸運に導く力は、自然に湧き出るものではない。髪をかきむしり、考えて、考え尽くす不断の努力が、幸運を運んでくれるものではないか。

 

しかし、努力を重ねたナイトは、その才能に気づいていない。努力の成果だと思っている。”セレンディピティ”とは、実は「よみ人しらずの短歌」のようなものだと言える。

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さて、口から出まかせのBlue Ribbon Sports社に、鬼塚喜八郎から靴が届くだろうか。世界一への道がどう拓かれるか。

→次号ブログへ

                      (※記載資料は、インターネット調べによる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホワイトデーは甘く

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MODIGLIANI

雪でぬかるんだ泥道で、頭をうなだれている男がいた。彼の名前は、カール・ベンツ。

 

1888年に、彼は自動車をつくったが、誰も見向きもしてくれなかった。その12年後の1900年、ウオールストリート・ジャーナル紙の社説「最近、自動車を街で見かけるが、舗装道路がなくては、役に立たない。やはり山野でもどこでも走れる馬車に勝るものはない。自動車は、一過性の流行になるだろう」と誤った予言をしていた。

 

これに敏感に反応したのが、ヘンリー・フォードだった「庶民の意見を聞いていたら、”これからはもっと早く強く走れる馬車の時代だ”というだろう。マーケティングを一切無視して、私のガッツ・フィーリングで決める」と言って、車の大量ライン生産に乗り出した。

 

これからは、政治を動かして道路を舗装させると、カールはもがいた。しかし、その”政治の道”は、いつ果てるとも知れない泥道だった。

 

そんな夫を見ていた妻のバーサ・ベンツは、夫のために何かできないか考えた。

 

”このクルマで、私が運転して走れば、女性でも動かせる便利なものだと、街の人々は思ってくれるはず”と考え、会社第一号のテストドライバーになり、街へ向かった:

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たちまち街の話題になり、会社の広報ウーマンになり、ベンツが広まるきっかけをつくった。

 

世界初のテスト・ドライバーだけでなく、女性の機転が利いた発明は他にもたくさん。

 

●エンジンの排出熱を何かに使えないかと「車内暖房」を考えついたのは、マーガレット・ウイルコックという女性技師(1893)

●クルマまわりで言えば、雨の日になくてはならない「ワイパー」を発明したのは、メアリー・アンダーソン(1903)

●薬を飲むのではなく、血管に直接入れれば早く効くんだけどという医師の言葉で「注射器」を発明したのは、レティティア・ギアー(1899)

●水圧を使って食器を洗えないかと「食洗機」を発明したジョセフィン・コックレイン(1887)

●お店で商品を入れてくれる、あの茶色の「ペーパーバッグ」の発明はマーガレット・ナイト(1871)。底が抜けないようになっている仕組みは、女にはできない、これは俺が発明したと法廷に持ち込んだ男チャーリー・アナンは敗訴。

●入口が出口と考える男には気付けない「非常口」の発明は、アナ・コネリー(1887)

●「ビール」。古代メソポタミアの女性が発酵し、(”キミ、最近、大麦臭いな”と夫に言われながらも)売り、(”昼間から飲んでんじゃないよ”と言われながらも)自分も飲んでいた、と粘土板に楔形文字で記録されている(BC5000)。まいりました。

 

最初のコンピュータ・ソフトウエア・プログラムも女性だった。もはや書ききれない。そんな女性とともに、モジリアーニの女性たちも素晴らしいと思う。

 

 

 

 

博士の異常な愛を感じる

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Dr. Strangelove

ロシア・ウクライナ戦争は、夫婦喧嘩だと捉えている人が多いのではないか。

 

夫婦喧嘩は、犬も喰わないと、賢いアメリカ人も加わらないと明言した。夫婦は別居しているが、妻からの離婚届を見て、そんなもの出せる身分かと、夫は妻を罵倒している。「だいたい、お前は、文句ばっかりだ。8年目に、海が見えるクリミヤの部屋をゆずれと言った時も、そうだった」と夫は責める。

 

冷酷な夫に耐えて、妻はつらい思いをしている。いつもそうだが有事には意見がまとまらず、ただオロオロしているだけのソーシャルワーカーの国連君も遠巻きに見ているだけだ。

 

戦火から守ってくれる駆け込み寺のNATOさんも、うちは会員制だしと、つれない返事。以前ウクライナを会員にしようという話が出た時、フランスとドイツが反対した経緯があり、今頃になって、この2カ国が身を乗り出してウクライナの相談に乗っている。

 

偏見に満ちたブラジル大統領の言葉がひどい。「同情はするけど、コメディアンに国の運命を託した奴らの気持ちがわからん。うちは、農業肥料の2/3をロシアから買っているし、ビミョーだね」さすが、”南米のトランプ”だ。

 

リーダーがコメディアンであろうがなかろうが、負け戦になるのは、始まる前からみんなわかっている。

 

ゼレンスキー大統領が、必死の思いでアメリカに助けを求めた時「国外に出た方がいい」と助言され、「私は武器を待っている。タクシーではない」と反論した。

 

コメディアンでなく、普通の政治家だったら、”時は我に味方せず。ケンドジュウライを期す”とか言って、いち早く安全な国に亡命していただろう。一緒に戦ってくれる人物を選んだウクライナ人は正しいと言える。

 

この戦争の残酷なところは、弱い者の側にカメラがあり、こうして負けていくんだというプロセスをまざまざと見せつけられている。

 

「戦争は、女の顔をしていない」というノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作がある。男の言葉で語られていた戦争を、女の言葉で語ろうとしたドキュメンタリーだが、この戦争では、弱者の叫びがネットを駆けめぐっている。

 

「我々には、民族と家族と友を想う正義がある。相手には、何もない」というゼレンスキー大統領の言葉が、人々を動かした。

 

しかし、家族と別れて、望んでもいない戦いに向かう男たちの口は重い。モロトフ爆弾を作っているキエフの男たちを見ると、竹槍で戦おうとした日本を思い出させ、絶望的な思いにさせる。

 

ウクライナキエフの駅でバーをやっている女性が「母をポーランドに送り出したけど、私は残る。避難していくみんなに食事を出している」あなたは避難しないのですか?「なぜ、私が逃げるの?この国から逃げるのは、ロシア人でしょ」という言葉が耳に残っている。

 

2017年、映画監督のオリバー・ストーンから観るように薦められたスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」※のファンなのか、ロシアの大統領は、原爆の使用を否定せず、ウクライナ人の恐怖をあおり、愛国心を抹殺しようとしている。(※https://www.youtube.com/watch?v=AK7-PMdvQ1Y)

 

ウクライナ人の生命時計が止まりかけていると思ったら、今や世界一のドローン生産国になったトルコのドローンを大量装備し、ロシアの侵攻を食い止めているとの報道(Time誌)。この戦果がTwitterに掲載されると、2日間で300万閲覧があったそうだ。ドローンに装備する核弾頭を、窮地のゼレンスキーが求めているとのツイートもある。

 

(twitter画像はコピー不可→YouTubeよりドローンTB2性能の実戦実証ビデオ)

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ロシア人の動きも早い。3月14日には、親ロ・反米のトルコ大統領に折衝:「お宅のドローンを、うちで全部買うから」「いいけど、お宅のルーブルは通用しないし、ビサ、アメックス、マスターカードもダメだし」と言ったかどうか不明。

 

世界は、”博士の異常な愛情(Dr.StrangeLove)”の核戦争が、現実になろうとしているのか。

 

映画では、”核戦争後は、100年間の地底生活を要求され、政治家と特定の人間には特例があり、一夫多妻制度に移行すると発表。政治家がニンマリする”というブラックユーモアも現実になれば面白いが。コロナの後に戦争、異常な妄想がふつふつ湧いてくる。

 

 

 

もう一つの人生

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Amelia Earhart

アメリア・イアハートには、コインの裏表のような異なる人生模様があった。

 

1937年、赤道上空を飛行するため最長距離になる世界一周飛行を、彼女は明日に控えていた。

 

思えば、1923年、米国16番目の女性パイロットとして免許を取得。5年後、1928年大西洋”便乗”飛行でアメリカン・アイドルになる。それから4年後、1932年大西洋女性単独飛行に成功。その後5年間、全米を飛行し、アイドル・パイロットとして、各地で熱狂的な歓迎をうけ、数えきれない講演会を行った。

 

アメリカン・ドリームになったアメリアは、10年間連れ添った夫、ジョージ・パットナムから距離をおきたいと思い、今回の最長距離飛行を思い立った。

 

夫を嫌いになったというより、もともと好きではなかった。ハーバード大卒で、興行師で出版業、プロのポーカープレイヤーという怪しいキャリアを持っていた彼を充分に理解も信頼もしていなかった。

 

彼とはあくまで仕事上の付き合いであり、ましてや当時、彼は既婚者で、恋愛対象でもなかった。しかし、アメリアと出会って3年後、彼は、画材メーカーCRAYOLAの社長令嬢の妻と離婚することになる。

 

彼の6度のプロポーズを断り続けた後、結婚前に、夫婦平等契約書を突きつけたには、理由があった。興行師の夫に配下のタレントのように、現地に飛んで講演する過酷なスケジュールを課され、働き続けていた彼女のせめてもの抵抗だった。当時、疲れきった彼女に同情したライターの告発本もあった。

 

姓もイアハートを名乗り続け、記者から「なぜ、ミセス・パットナムを名乗らないのか」と聞かれ、鼻で笑ったと伝えられている。そのうち、”ミスター・イアハート”と夫が呼ばれるようになった。

 

しかし、彼が彼女の好みでなくても、辣腕の興行師兼マネージャーの彼なくしては、一歩も前に進まないことも彼女にはわかっていた。結婚当初、略奪愛を疑われたが、恋愛感情よりもビジネスを優先させた彼女は意に介さなかった。(写真は1937年のイアハート夫妻。40歳の彼女の表情が、いろいろあったことを物語っている)

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1937年5月、彼女が招聘教授をする名門ペルデュー大学から寄贈されたロッキード社製の飛行機を駆って、約2ヶ月後の7月4日にゴールになるカリフォルニア州オークランドを離陸した。

 

しかし、7月2日にニューギニア近海で消息を絶った。南アメリカ〜東アフリカ〜アジア〜オーストラリアを経て42日目、あと僅か2日でオークランドのゴールだった。

 

懸命な捜索は、80年後の2017年まで続いたが、遺体も機体も発見できなかった。夫のパットナムから遺体捜索への支援・協力を申しでた記録はなく、事故2年後の1939年に死亡が認定されてから数ヶ月で、3度目の結婚をした。また、事故直前のアメリアの最後の悲痛の叫びが込められた交信記録を出版することに、彼はちゅうちょしなかった。冷めた夫婦関係だった。

 

アメリアは、自分の幸せをすり減らし、パイロットとしての野望を貫いた女性と言えるかも知れない。もし、男たちが彼女の前に現れなかったら、彼女の人生はどうなっただろうかとも考える。