マディソン郡の橋の彼が好きだった

gran trino

ハリウッド俳優のクリント・イーストウッドは、演技が上手いのか、下手なのか分からない。

 

クリントの当たり役は、”ダーティ・ハリー”。複雑な心理戦はない。ひたすら容疑者を追い詰め、法廷に立たせることなく、マグナム銃をぶっ放す(無法者はどっちだと思う)。クリントの決まり文句は"Make My Day(すっきりさせろ)"。演技力はいらない。

dirty harry

"ダーティ・ハリー"の前といえば、マカロニ・ウエスタンのカウボーイ役。この仕事については、うまい話に乗せられたとクリントが後日語っている。人を乗せるのがうまいのは、イタリア人と決まっている。監督のセルジオ・レオーネが「(クリントが好きな)日本の黒澤明の”用心棒”をやりたい。ついては、エリック・フレミング(ローハイドの隊長役)が、クリントならやると薦めてくれた。(ギャラもローハイド時代の週給100ドルではなく)週給1,300ドルで11週間、完成時にはメルセデス」とたたみかけた。クリントにとって、断る理由も余裕もなく、スペインの撮影現場に向かうことになる。”テレビ俳優”から格上の”映画俳優”になるチャンスを期せずしてつかんだ。

a fistful of dollars

"ローハイド"、マカロニ・ウエスタン、"ダーティ・ハリー"と、29歳から41歳まで続く。すべて演技力を求められない役柄だった。西部劇では、馬毛アレルギーのため薬を飲み、毎日馬に乗った。健康フェチのノンスモーカーなのに、シガーをくわえて演技する我慢もした。そして、仕事場では、ステレオタイプの「典型」を飽きもせず演じさせられる。私生活にうっぷんが溜まる。2度の離婚と2度の同棲を通じ8人の子供をもうける(本人の主張では7人)。乱脈な私生活で訴えられたりしながら、人生勉強をしていた。

 

"ダーティ・ハリー"後のクリントは、監督業が多くなり、ある年齢に達するまであたためていた原作を、次々映画化し、手応えのある大人の映画を世に問う。

 

”アンフォーギブン”、”ミリオンダラー・ベイビー”、"グラン・トリノ"、"運び屋(the Mule)"あるいは”クライ・マッチョ”など、高潔、孤高、枯淡の演技でも圧倒する。

 

60歳の過ぎた男には、人生のかげりも、しわ一本一本から自然にかもしだされる枯淡の力と言える。むしろ演技力を抑えて生まれる味を、いまのクリントに感じる。

cry macho

ハリウッドは、いまだにベスト男優賞をクリントに与えていない。クリントも「(名優の多い)ユダヤ人でもないし、審査員でもないし」と冗談めかしている。

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約70年のキャリアで、70数本の出演フィルムがあるが、ほぼ半分の30数本の監督をしている。監督としては、"アンフォーギブン"と"ミリオンダラー・ベイビー"で、オスカーの監督賞を2度受賞している。

 

普通の撮影現場では、”エブリシング、オーケー?(フィルム)ローリング、ア〜ンド、アクション〜!”ディレクターの空気を切りさく大きな掛け声に、スタッフに緊張感が走る、撮影が始まる。

 

しかし、クリントの現場は違う。彼は、人差し指を耳の横に立てて、指をくるくる回転させる。カメラの後ろの初めてのスタッフは、あの、指を回すのなに?と思って見ていると、フィルムが回転する音が聞こえる、演技が始まる。

 

メリル・ストリープは「私たちは100m走者じゃないんだから、クリントの静かなスタートで、演技に自然に入れる」と言う。渡辺謙二宮和也も同様の感想だ。

 

陽気なトム・ハンクスは「ウエスタン映画が多かったクリントにとっては”ローリング、ア〜ンド、アクション〜!”では、馬が大騒ぎして撮影にならないと思っているはずだ。要は、クリントは、我々俳優を、馬としてあつかっている」と、トークショウの観衆を沸かせた。

 

'72年、最初の監督作品”Play Misty for Me"(ラジオのDJをストーカーする女性のサイコ・サスペンス)は、評判もよかった。自信満々のクリントは、その頃、ハリウッドに来ていたヒチコックから監督術を学ぼうとした。スタジオで待っていたヒチコックは、腕を組んで、あまり気乗りしない様子だった。クリントによると「黒スーツの太った男が微動だにせず、目だけキョロキョロ動かして、異様だった」。ヒチコックは「トリュフォーと話すのはいいけど、彼とは、100年早い」と思っていたに違いない。

 

クリントが、なぜこんなに早く監督を目指したのか。彼の下積み時代に関係がある。”ただ立っているだけならいい”と皮肉を言われ、20代はオーディションをほとんど落ちまくった。高校時代は、校庭のスコアボードに、教師の悪口を落書きしたり、校庭の銅像に火をつけて退学。雑貨屋の店員、新聞配達、ゴルフキャディなどをした若者には、誰かになりきる芝居を真剣にする気にもなれなかったのだろう。

 

しかし、彼の容姿に目をつけて週給100ドルの契約をしたプロモーターは、週給分でも稼がそうと、必死だった。審査がゆるいB級、C級の映画に彼を送り込んだ。俺は何をしてるんだと思いながら、街を襲う巨大毒グモから逃げまどっていた。この手の映画に多い、意気込みだけはあるが、ノープランのヘボ監督とたくさん仕事をさせられた。

 

29歳でつかんだメジャーな”ローハイド”ですら、監督の独りよがりのこだわりで、理由もわからず何度も同じ演技をさせられた。「もう一度、向こうから馬で走ってこい」と言われ、馬をゆっくり歩かせて戻り「あいつは、クソだ」と監督を激怒させた。

 

長く続いた下積みの20代は、反抗期になり、”監督への学び”をした。他人に通じない思い込みや、思い入れをしない”反面教師”として監督術を体得していった。

 

クリントは、ほとんど”リハーサルはしない。役者の解釈を優先し、生かす。演技者の迷いのない、気分が乗った最初のテイク(撮影)を素直に生かす。背景をシンプルにして、照明も抑え、技巧を凝らさない。撮影現場では、すべてをミニマイズして、観客の知性を信じ、想像力に任せる。クリントの監督作品は、予算内、時間内で終了。ハリウッドの経営・製作陣は、クリントの監督スタイルを歓迎した。

 

受賞歴のある監督と、受賞歴のない俳優が、一人の人間の中で、微妙に折り合いをつけて同居している。彼の演技に対する努力より、監督への情熱がまさったのは、若い頃にオーディションを落ちまくったトラウマがあったとしても不思議ではない。また、同期の俳優に演技力で、圧倒的に差をつけられていたことも影響していたと想像する。

 

・同年齢のスティーブ・マックイーンは、クリントがローハイドの脇役を得る1年前に、すでに"拳銃無宿"のTVシリーズで主役を張っていた。そして、ローハイドで右往左往している頃、"大脱走"の大ヒットで大スターになっていた。・1歳年下のジェームス・ディーンは、クリントが巨大毒グモから逃げまどっている頃、"エデンの東""理由なき反抗""ジャイアンツ"で、アカデミー賞のベスト・アクターにノミネートされていた。・2歳年下のアンソニー・パーキンスは、ローハイドを鼻で笑って、"渚にて"や"サイコ"の劇場ヒットを飛ばしていた。

 

"Can't win them all(すべて勝てるわけじゃない)"と犯人に言い聞かせたダーティ・ハリー。底辺から這い上がったクリントはちゃんとわきまえている。