頭はスポンジ、ペンはアンテナ

once upon a time in Hollywood

好きと嫌いが、あいなかばする人がいる。

 

好きでもない嫌いでもない、普通そういう人は、気にもならなくて記憶から消える。それでも、少し気になる人が、監督、脚本家、俳優、プロデューサーをこなすクエンティン・タランティーノ

 

タランティーノの映画は、”暴力が幸せを呼ぶような仕組みになっている”。だから、バイオレンスの高揚感が残る。

 

”バイオレンス映画の、社会的悪影響”をマスコミに問われたとき「私は、あなたの質問に答えない。私は、あなたの奴隷でもないし、あなたは私の主人でもない。私はあなたのリズムで踊りたくない。私は、猿ではない」とタランティーノは核心をそらせて、答えなかった。「バイオレンスはいい。観客を魅了する」と言っている”エンターテイメント・テロリスト”は、暴力を否定できなかった。

 

架空のエンターテイメントであれば、すべて許されるわけではない。私が、タランティーノを嫌う理由だ。

 

タランティーノは、あらゆる映画のアーカイブを頭の中に呼び出せるような研究家であり、それゆえ、ここは、深作欣二だ、サム・ペキンパーだ、セルジオ・レオーネだとか、興醒めさえする。あるいは、「”キル・ビル”は、復讐劇で、中国のマーシャルアート、日本の時代劇、マカロニ・ウエスタン、そしてイタリアン・ホラーでできている」と本人があっけらかんと解説したりする。

kill bill

「映画は芸術じゃない、娯楽だ」というタランティーノの開き直りも、好きでない2つ目の理由だ。

 

タランティーノのここが好き”というところもある。彼の略歴を見てみよう。

 

タイガー・ウッズが、3歳からゴルフを始めたように、彼も3歳から10歳まで、映画好きのミュージシャンの父親に映画に連れて行かれた。何を観たいか、子供の希望を聞くわけもなく、父親の好きな映画。ディズニー映画ではなかった。

 

英才教育のせいか、14歳で脚本を書きはじめた。IQ160と記録にあるが、高校を中退。大好きな映画に囲まれたビデオショップ勤めの生活を、タランティーノは選んだ。「学歴がない人生は、ピクニックではない」と母親が人生の厳しさを教えようとしたが、16歳でタランティーノを産んで、10年間で2度離婚の母親には、彼をいさめることはできなかった。

 

「あんたの脚本は、下手だね。絶対売れないよ」と言った母親に対し「脚本で儲けた金は、1セントも分けてやらない」と息子は反撃した(脚本収入1億2千万ドル、2021年時点でも、この約束は守られている)。

 

タランティーノ15歳の時、脚本制作の参考にしたい本を、ショッピングカートに入れたら、母親に突き返された。そこで、その本を自分のポケットに入れた。母親が「盗むな」と激怒、彼に本を返却させた。

 

19年後、万引きを失敗した本を脚本化し、”ジャッキー・ブラウン”を映画化。作家エルモア・レオナードが「私の著作の中で、脚本化された最も優れた映画」と、ほめている。

jackie brown

タランティーノは「僕の頭はスポンジ、ペンはアンテナ」と言い、人の話を徹底的に聞き込んで、ペンの先から登場人物が立ち上がる。「生きた人物ができあがったら、ストーリーが自然にできる」。ロケ現場で、主演のウマ・サーマンと話しこんで、”キル・ビル2”が生まれたように。

 

彼の生きた脚本に、演技者が手を挙げる。サミュエル・L・ジャクソンレオナルド・ディカプリオ、ハービイ・カイテルティム・ロスなど、何度も彼の映画に出演している。

pulp fiction

でも、いいところばかりではない。”バイオレンス映画”の監督は、ガサツなんじゃないかと思ったりする。

 

例えば、ハリウッドの大物プロデューサーのセクハラ・スキャンダルが話題になった時、タランティーノは、2人の女性被害者から相談を受けていた。プロデューサーに直接抗議し、2人に対し謝意を表明させた。(しかし、すでに訴訟進行中の2人は、言い訳つきの”謝意”より、訴訟の追い風になるように、タランティーノに声をあげてもらい、マスコミをもっと巻き込みたかったのが本音)。ほぼ何の役にも立たなかった。後日、タランティーノも”もっとうまくできた”と反省。雑。

 

タランティーノが、梶芽衣子のファンだったことは有名。”キル・ビル”の日本撮影で、「彼女にふたりだけで会いたい」と言い出した。日本人のプロデューサーが、二つ返事で引き受けた。「本人の承諾もなく」と、梶芽衣子が激怒。なんとかとりなして彼女に会ってもらう。でも「英語も喋れないのに、何話すの」というふきげんな顔では、友好も親善も親密もなかった。タランティーノの”ミューズ(女神)リスト”から彼女の名前が消えた。ガサツ。

 

でも、映画制作では、”映画オタク”の研究心で、粗い網目を細かくする。

 

クリストファー・ノーランアルフレッド・ヒチコックマーティン・スコセッシスティーブン・スピルバーグを研究対象とした。そして、ジャン=リュック・ゴダールを映画の革命児と讃え、彼があみ出した章ごとにストーリーを分けるジャンプ・カットを、”パルプ・フィクション”など、多くの作品で使っている。

 

「名監督の晩年の作品は、ロクなものじゃない」と思っている”映画オタク”は、生涯製作10本と決めている。その後は、映画研究家になりたい目標を持っている。現在、10本目の映画に向けて、離婚騒動のジョニー・デップと脚本の打ち合わせに入っている。

 

いい点もわるい点もあり、人間っぽい。タランティーノは、好きでも嫌いでもない、愛すべき人だと思った。

 

人は人をどれだけ愛せるか

The Shining

すさまじいピラニアのように、しつこいヘビのように、完成度を突きつめていく。完璧主義者のスタンリー・キューブリックの撮影現場の空気だろう。

 

しかし、完璧主義者についていけない人間が現れると、そこで船は沈む。キューブリックにとって幸運だったのは、彼に浮力を与える人間が現れていた。

 

時計じかけのオレンジ」を観ていた男が、横の席の友達に向かって言った「俺は、この人についていく」。数年後「バリー・ロンドン」のオーディション会場に、彼はいた。そして、”激しく嘔吐する男”の役柄を得た。

Leon Vitali

撮影当日、レオン・ヴィタリは、半生のチキンとトマトを胃に詰め込んで、現場に臨んだが、涙はあふれるが、嘔吐はできなかった。キューブリックが現れ「生卵を飲め」と言った。盛大な嘔吐シーンが生まれた。このちっぽけな端役に全身で挑む男の執念に、キューブリックは心を動かされ、次の映画「シャイニング」の台本を彼に渡していた。

 

そして、1日16時間、1週7日間の労働が始まることになる。クリスマスにキューブリックからヴィタリに電話が入った。クリスマスの挨拶もなく、仕事の話だった。彼は、歯槽膿漏の痛みを和らげるために、ウイスキーをすり込んで外へ出た。

 

ヴィタリの仕事は、キューブリックが撮影で必要なものをすべて調達することだった。加えて、キャスティング・ディレクター、演技指導、監督の前頭葉を刺激する役割など。

 

「シャイニング」の少年と少女のオーディションには、5,000人を集めた。1日100人でも50日かかる徹底ぶりだった。少年役は、ヴィタリが演技指導することで、キューブリックの反対を押し切った。

 

”廊下に立つ少女”についても、キューブリックのイメージよりも、ヴィタリは”双子の少女”が不気味でいいと思い、ダイアン・アーバスの双子少女の写真を示して、即決された。

左©︎Diane Arbus             右©︎The Shining

有能な助手を得たキューブリックは、紙にインクが沁みるように、幸せをゆっくり感じていた。

 

しかし、撮影が始まると、ピラニアとヘビが騒ぐ。ジャック・ニコルソンによれば「1シーンで50回のテイク(撮影)は普通」と言っている。お化けのバーテンダーが微笑むシーンでも、30回。妻役のシェリー・デュバルがバットを振り回して夫と戦うシーンがあるが、127回のテイクに耐えなければならなかった。焦燥、疲労、手に血豆。恐怖を全身で感じていた。撮影中、彼女は、脱毛症になった。

 

役者は、”感情を奏でる楽器”とキューブリックは思っていた。しかし、気に入る楽器は、少なかった。ニコルソンには自由演技をさせ、キューブリックが編集で選ぶ方式をとった。幸せな楽器は、ニコルソンとマルコム・マクダウェル(時計じかけのオレンジ主役)だけという。

 

キューブリックは、ヴィタリにすべてを相談することで、彼を幸せにした。

 

彼の友人はこぞって、キューブリックとの関係を断つよう助言したが、「僕は、スタンリーを愛してしまったから」と言い、1999年3月7日、ほぼ30年間、キューブリックが亡くなる日まで仕えた。

 

キューブリックが目指した世界が恐怖でふるえるエンターテイメント「シャイニング」こそ、監督助手ヴィタリのデビュー作だった。その予告編をもう一度観たい:

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最後に、キューブリックを尊敬した監督たち17名(発言録より収集):マーティン・スコセッシスティーブン・スピルバーグジョージ・ルーカス、ジェイムス・キャメロン、テリー・ギリアムコーエン兄弟リドリー・スコット、ウエス・アンダーソン、ジョージ・ロメロクリストファー・ノーラン、デイビッド・フィンチャー、デイビッド・リンチ、ティム・バートンギレルモ・デル・トロ、ミシェル・マンギャスパー・ノエ、フォン・トリアー。

 

マディソン郡の橋の彼が好きだった

gran trino

ハリウッド俳優のクリント・イーストウッドは、演技が上手いのか、下手なのか分からない。

 

クリントの当たり役は、”ダーティ・ハリー”。複雑な心理戦はない。ひたすら容疑者を追い詰め、法廷に立たせることなく、マグナム銃をぶっ放す(無法者はどっちだと思う)。クリントの決まり文句は"Make My Day(すっきりさせろ)"。演技力はいらない。

dirty harry

"ダーティ・ハリー"の前といえば、マカロニ・ウエスタンのカウボーイ役。この仕事については、うまい話に乗せられたとクリントが後日語っている。人を乗せるのがうまいのは、イタリア人と決まっている。監督のセルジオ・レオーネが「(クリントが好きな)日本の黒澤明の”用心棒”をやりたい。ついては、エリック・フレミング(ローハイドの隊長役)が、クリントならやると薦めてくれた。(ギャラもローハイド時代の週給100ドルではなく)週給1,300ドルで11週間、完成時にはメルセデス」とたたみかけた。クリントにとって、断る理由も余裕もなく、スペインの撮影現場に向かうことになる。”テレビ俳優”から格上の”映画俳優”になるチャンスを期せずしてつかんだ。

a fistful of dollars

"ローハイド"、マカロニ・ウエスタン、"ダーティ・ハリー"と、29歳から41歳まで続く。すべて演技力を求められない役柄だった。西部劇では、馬毛アレルギーのため薬を飲み、毎日馬に乗った。健康フェチのノンスモーカーなのに、シガーをくわえて演技する我慢もした。そして、仕事場では、ステレオタイプの「典型」を飽きもせず演じさせられる。私生活にうっぷんが溜まる。2度の離婚と2度の同棲を通じ8人の子供をもうける(本人の主張では7人)。乱脈な私生活で訴えられたりしながら、人生勉強をしていた。

 

"ダーティ・ハリー"後のクリントは、監督業が多くなり、ある年齢に達するまであたためていた原作を、次々映画化し、手応えのある大人の映画を世に問う。

 

”アンフォーギブン”、”ミリオンダラー・ベイビー”、"グラン・トリノ"、"運び屋(the Mule)"あるいは”クライ・マッチョ”など、高潔、孤高、枯淡の演技でも圧倒する。

 

60歳の過ぎた男には、人生のかげりも、しわ一本一本から自然にかもしだされる枯淡の力と言える。むしろ演技力を抑えて生まれる味を、いまのクリントに感じる。

cry macho

ハリウッドは、いまだにベスト男優賞をクリントに与えていない。クリントも「(名優の多い)ユダヤ人でもないし、審査員でもないし」と冗談めかしている。

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約70年のキャリアで、70数本の出演フィルムがあるが、ほぼ半分の30数本の監督をしている。監督としては、"アンフォーギブン"と"ミリオンダラー・ベイビー"で、オスカーの監督賞を2度受賞している。

 

普通の撮影現場では、”エブリシング、オーケー?(フィルム)ローリング、ア〜ンド、アクション〜!”ディレクターの空気を切りさく大きな掛け声に、スタッフに緊張感が走る、撮影が始まる。

 

しかし、クリントの現場は違う。彼は、人差し指を耳の横に立てて、指をくるくる回転させる。カメラの後ろの初めてのスタッフは、あの、指を回すのなに?と思って見ていると、フィルムが回転する音が聞こえる、演技が始まる。

 

メリル・ストリープは「私たちは100m走者じゃないんだから、クリントの静かなスタートで、演技に自然に入れる」と言う。渡辺謙二宮和也も同様の感想だ。

 

陽気なトム・ハンクスは「ウエスタン映画が多かったクリントにとっては”ローリング、ア〜ンド、アクション〜!”では、馬が大騒ぎして撮影にならないと思っているはずだ。要は、クリントは、我々俳優を、馬としてあつかっている」と、トークショウの観衆を沸かせた。

 

'72年、最初の監督作品”Play Misty for Me"(ラジオのDJをストーカーする女性のサイコ・サスペンス)は、評判もよかった。自信満々のクリントは、その頃、ハリウッドに来ていたヒチコックから監督術を学ぼうとした。スタジオで待っていたヒチコックは、腕を組んで、あまり気乗りしない様子だった。クリントによると「黒スーツの太った男が微動だにせず、目だけキョロキョロ動かして、異様だった」。ヒチコックは「トリュフォーと話すのはいいけど、彼とは、100年早い」と思っていたに違いない。

 

クリントが、なぜこんなに早く監督を目指したのか。彼の下積み時代に関係がある。”ただ立っているだけならいい”と皮肉を言われ、20代はオーディションをほとんど落ちまくった。高校時代は、校庭のスコアボードに、教師の悪口を落書きしたり、校庭の銅像に火をつけて退学。雑貨屋の店員、新聞配達、ゴルフキャディなどをした若者には、誰かになりきる芝居を真剣にする気にもなれなかったのだろう。

 

しかし、彼の容姿に目をつけて週給100ドルの契約をしたプロモーターは、週給分でも稼がそうと、必死だった。審査がゆるいB級、C級の映画に彼を送り込んだ。俺は何をしてるんだと思いながら、街を襲う巨大毒グモから逃げまどっていた。この手の映画に多い、意気込みだけはあるが、ノープランのヘボ監督とたくさん仕事をさせられた。

 

29歳でつかんだメジャーな”ローハイド”ですら、監督の独りよがりのこだわりで、理由もわからず何度も同じ演技をさせられた。「もう一度、向こうから馬で走ってこい」と言われ、馬をゆっくり歩かせて戻り「あいつは、クソだ」と監督を激怒させた。

 

長く続いた下積みの20代は、反抗期になり、”監督への学び”をした。他人に通じない思い込みや、思い入れをしない”反面教師”として監督術を体得していった。

 

クリントは、ほとんど”リハーサルはしない。役者の解釈を優先し、生かす。演技者の迷いのない、気分が乗った最初のテイク(撮影)を素直に生かす。背景をシンプルにして、照明も抑え、技巧を凝らさない。撮影現場では、すべてをミニマイズして、観客の知性を信じ、想像力に任せる。クリントの監督作品は、予算内、時間内で終了。ハリウッドの経営・製作陣は、クリントの監督スタイルを歓迎した。

 

受賞歴のある監督と、受賞歴のない俳優が、一人の人間の中で、微妙に折り合いをつけて同居している。彼の演技に対する努力より、監督への情熱がまさったのは、若い頃にオーディションを落ちまくったトラウマがあったとしても不思議ではない。また、同期の俳優に演技力で、圧倒的に差をつけられていたことも影響していたと想像する。

 

・同年齢のスティーブ・マックイーンは、クリントがローハイドの脇役を得る1年前に、すでに"拳銃無宿"のTVシリーズで主役を張っていた。そして、ローハイドで右往左往している頃、"大脱走"の大ヒットで大スターになっていた。・1歳年下のジェームス・ディーンは、クリントが巨大毒グモから逃げまどっている頃、"エデンの東""理由なき反抗""ジャイアンツ"で、アカデミー賞のベスト・アクターにノミネートされていた。・2歳年下のアンソニー・パーキンスは、ローハイドを鼻で笑って、"渚にて"や"サイコ"の劇場ヒットを飛ばしていた。

 

"Can't win them all(すべて勝てるわけじゃない)"と犯人に言い聞かせたダーティ・ハリー。底辺から這い上がったクリントはちゃんとわきまえている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スケッチブックを離さない

 

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Alien

 

体験でみんな知っている、映画は監督で選ぶと、ほぼハズレがない。コーエン・ブラザーズの「ファーゴ」「ノー・カントリー」、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」「シャイニング」、アレハンドロ・イニャリトゥの「バードマン」「リヴェナント」、そしてリドリー・スコットの「ブレード・ランナー」「エイリアン」、その他、クリント・イーストウッドマーティン・スコセッシウディ・アレンリュック・ベッソンなど、監督目当てで観たくなる。

 

そこで、監督の人柄とかに興味が湧く。アートディレクションが素晴らしいリドリー・スコットはどうか。前から気になっていた。

 

リドリーは、ロンドンの難関の王立アートスクールを卒業してBBCにデザイナーとして入った。それから「すぐに独立して、順調にいった」と本人が言うように、とても優秀だったようだ(弟のトニーは、一浪後に兄と同じアートスクールへ)。

 

優秀な美大生兄弟の父は、軍隊の技術者だった。転勤が多く、兄弟はどこへ行っても転校生だった。友達がいない二人の手には、いつもスケッチブックがあり、白い紙に向かって思いをぶつけていた。美大では、毎日真っ白なスケッチブックを開いて、絵で埋め尽くして1日が終わる。「これほど幸せに満ちた素晴らしい時間はなかった」と、リドリー。キューブリックの「2001年」を観て、映画監督への進路を決めた。リドリーがスケッチで描いた製鉄都市が、その後の映画「ブレード・ランナー」の街のモチーフになった。

 

父親が滅多にいない家庭では、いつもイライラしている母親がボスであり、彼女の言葉は常に命令だった。夫は贖罪のように、妻がシャネルやジバンシーが毎週でも買えるくらいの生活費を与えていた。兄弟は母親から美的センスを学んでいった。そして、強い女性への憧れも。だから、リドリーの映画に登場する女性は強い。「エイリアン」ではエイリアンを撃退するシガニー・ウイーバー、「テルマ&ルイーズ」では男をぶっ殺す二人の女性、「G.I.ジェーン」では海兵隊刈りのデミ・ムーアなど。申し合わせたように、弟トニーの監督作品「トップ・ガン」では、強い女性士官ケリー・マクギリスがトム・クルーズの前に現れる。

 

リドリーは、南仏、ビバリーヒルズ、ロンドンに家を持っている。ロンドンの6階建て邸宅に住み込んだハウスキーパーが書いた本があり、リドリーがどんな人か、少しだけわかる。それにしても、個人情報のダダ漏れは、いいのか。リドリーとの契約で、家計費以外はオープンにしていいと、取決めをしていたようだ。

 

全ての家具、水道栓、シャワーの蛇口、家の外のゴミ箱の蓋まで、純金や銅製。「18Kでなくてもいいのでは」と息子に言われ「偽物を周りに置きたくない」とリドリーは答えた。引き出しやクロゼットの取っ手に触れると、指紋がつくので、毎日4時間以上かけて拭き取る掃除専門の使用人がいる。その他、(公園のような広い庭の)庭師、窓拭き、完璧な仕事をこなす王室御用達のペンキ屋が、1年に8ヶ月通ってくる。使用人が家の中に入るときは、汚れを嫌い、日本家屋のように勝手口で靴を脱がす。リドリーの口癖は"spotless(シミひとつない)"が好きだ。

 

ハウスキーパーは「彼は完璧主義者だ」と言い、下着などを部屋に脱ぎ散らかす次男のルークは、そんな父親を「クレージー」と言う。しかし、他人に厳しいだけでなく、リドリーは、長期のロケ先から邸宅に帰ると5分後には、まず勝手口の庭の掃除から嬉々として始め、枯れ葉を集め、4つのゴミ箱の蓋を手で丁寧に水洗いし、金の取っ手をピカピカになるまで磨く。その後、地下1階から4階まで、自分の部屋の家具を移動し、雰囲気を変えて楽しんでいる。他の英国紳士同様、”家は城だ”という考えを徹底しているようだ。

 

ハウスキーパーに対しては、使用人を見下した態度で命令はしない。役割をリスペクトした英国紳士らしい振る舞いだそうだ。住み込みのスペースには、居間、寝室、台所、バストイレが整っていた(多くのユダヤ系の富裕家庭では、使用人に寝室1室がざらだった)。月給は20数万円、有給休暇は年1ヶ月、週休1.5日、病気になれば、国が無料で治療してくれる。文句はない。不安もない。

 

恵まれた環境にいてもハウスキーパーは「リドリーの完璧主義は、頭痛の種」と言っていたが、母親の影響を受けて美意識が高く、少々潔癖症というくらいではないかと思う。完璧主義者は、大げさだ。次男の「オヤジはクレージー」が正しいように思う。

 

興行成績がすべての映画会社には、口うるさい投資家や、強引なプロデューサー、鉄壁のマーケターがいる。30秒の製作費が1億円と聞いて、リドリーが不眠症になった広告業界には、わがままな広告主、プライドの高いクリエイター、データで身を固めたマーケターがいる。批判を許さない完璧主義者には、打ちのめされる環境が整っている。(「雲の形がよくない」と撮影を中止していた、甘やかされていた完璧主義者の黒澤明監督は、ハリウッド映画では降板させられている)。

 

リドリーがどうして”自分の城”を必死に守ろうとしていたのか。滅多に家に帰らなかった(後に船舶会社役員の)父親の轍は、踏みたくないという意志が働いているのではと思う。家庭らしい家庭をつくりたい。毎朝7時20分に起床し、毎夜8時に次男と夕食をとる”家のルール”にも、その意志が表れている。

 

絵の好きだった少年の空想力が、いかんなく発揮されているCMがある。ヘネシーX.Oのテイスティング委員会が作成した"7つの世界へのオデッセイ"(甘美、熱、高揚、刺激、炎、凪、蒼森)が、饒舌に描写されている

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CMの最高傑作と評されるリドリーのアップル「1984」は、目にタコ状態なので、リドリーらしい美意識の「シャネル#5」。”空想をシェアしたい”コンセプトが魅せる:

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母子家庭の二人は、兄弟仲がよかった。トニーが王立アートスクールを卒業した時「BBCには入るな。僕の会社に入れば、1年後には君の好きなフェラーリに乗れるようにしてやる」と言い、約束を果たした。ドキュメンタリー作家になりたかったトニーは(報道のBBCに本当は入りたかったが)、兄の勧めに応じコマーシャルの監督になった。作風が兄に似ている。その一つが、スエーデンのSAAB。放映を見た映画プロデューサーが、トニーを「トップ・ガン」の監督に抜擢した。戦闘機をかっこよく撮影した映像がすでにここにある。

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トニーは、2012年8月68歳、ハリウッド郊外の橋のそばに車を止め、投身自殺をした。目撃者によると、何のためらいものなく、橋からジャンプしたそうだ。原因は不明。冥福を祈念。

        (※参考図書 高尾慶子著「イギリス人はおかしい」、その他ネット調べ)

偶然は素敵③

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©︎usa today

ある昼下がり、人生が変わった男がいた。

 

製紙会社をクビになった27歳の男は、妻にどう切り出そうか迷っていた。自宅に戻り、地下の家事室に通じる階段に座り込んで、洗濯物をたたむ妻の後ろ姿を見ていた。

 

階段上の彼に気づいた妻は「お仕事はどうだった?」と言葉をかけた。「会社を、クビになった」と言うのが精一杯だった。妻はまぶしそうな目で、彼を見上げ「ま、次になにかあるわよ」と言って、何もなかったように、洗濯物の片付けを続けた。

 

「どうしてクビになったの?」「これからどうするの?」答えを準備した質問はなかった。夫が、ひっくり返ろうが、すごいショックをうけていようが、妻は洗濯物を片付ける作業を優先しているように見えた。

 

その時、彼は、妻がとても大きなことを教えてくれていたような気がした。彼女は、失敗を許してくれている。男のプライドという”ビル”が倒れたのに、女の大地からはホコリも立たない。「誰も完璧じゃない。失敗してもいいんだ」ということを知った。

 

人よりミスをしないようにするために教育があると思っていたが、まったく間違っていた。ミスをしない人間に学びはない。ミスを恐れていたら、人の成長が止まる。

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彼が広告会社をつくったとき、数千の押しピンで字を描いた"Fail Harder(思いっきり失敗しろ)"。これを成長するための社是にした。

 

いくら妻に気づかされたと言っても、”大失敗”というギャンブルから学ぶ広告会社もいいが、とりあえず成功イメージの広告会社を、クライアントは選ぶのではないか。隣に"Do It a Little Better(少し良くします)"というスローガンを掲げた会社ができたら、競合の厳しさを知る経営者なら、こちらを選ぶのではないか。

 

この失敗しそうな広告会社の社長は、ダン・ワイデン。彼の父は、デューク・ワイデン。ポートランドの名士で、コカコーラなどを扱う大きな広告会社を経営していた。

 

実は、息子ダンが会社を設立する10年前の1972年に、彼の父デュークは、フィル・ナイトの訪問をうけていた。日本のオニツカタイガーとの契約を解消し、自社製品もなく、ナイトの会計士としての収入を会社経営に充てていた最悪の時代だった。しかし、ブランド名NIKEロゴマークも決まり、それらを世の中に広める広告会社がどうしても必要だった。デュークは「販路をもう少し整備してから、もう一度うちに来てくれれば考える」と、やんわりと取引を断った。

 

それから10年後の1982年、マッキャン・エリクソンで出会ったデイビッド・ケネディと組んでワイデン&ケネディを設立。得意先を必死に探していた二人にとって、話題のワッフル底のスポーツシューズで、勢いをえたポートランドのナイキは、垂涎のターゲットだった。

 

二人は、ナイキのセールス・ミーティングにもぐり込み、ナイトに会社最初のクライアントになってほしいと頼み込んだ。運が良かったのは、デュークに取引を断られた後、依頼したシアトルの広告会社のサラリーマン・クリエイターの仕事に、ナイトはとても不満だった。

 

ワイデンの”失敗を恐れない”社是には、ナイトは1ミリも動かされなかったが、意欲的なところに惹かれた。この後、彼を門前払いした父親を許し、その息子の会社と取引するナイトの凄さを、ワイデンは知ることになる。

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ナイトの最初の言葉は「私は、フィル・ナイト。広告を信じない」だった。

 

2つの理由があった。①私は数字がすべての会計士でもある。広告はただの経費②ナイキをこよなく愛しているセールスマンの私を超えるコンテンツはない

 

また「広告は売れた商品をさらに売るためにある」とも言い、「商品力に勝る広告はない」という持論は、ワイデンに広告を任せても変わらなかった。

 

80年代中盤、ナイトがワイデンに出会って数年後、赤字決算を続けたナイキに奇跡が訪れた。空力テクノロジーを実用化した”NIKE AIR"の開発に成功。3カ国で原材料を調達することが求められるなど、社内でも実用化が困難とされた商品だった。クッションが可視化できる機能的なエアクッションが、バスケットボールはもとより、街のカジュアル・シューズとしても、スポーツクラブのフィットネス・シューズとしても幅広く人気を集め、世紀の大ヒット商品になった。

 

他を圧倒する弾力性のために、NBAが使用禁止措置を発表。CMに起用したマイケル・ジョーダンが、禁止処分を無視し、使用し続けた。このため、試合ごとに罰金を課せられた。ナイキがその罰金を肩代わりした。これもまた話題になった。

 

広告に懐疑的なナイトに、ワイデン&ケネディの制作ぶりは、どう映っていたか。ナイトによると「昼夜時間を問わず、彼らは、徹底的に商品を分析し、探求し、商品インサイト、スポーツマンの人間性、感性なども研究し、テーマとメッセージを導き出していた。彼らのこの態度は、商品開発に挑む我々の態度と共通するものがあり、とてもいいケミストリーだった」。

 

「テクノロジー人間性と結びついたとき、心を震わすようなものが生まれる」とスティーブ・ジョブズが言っているが、ワイデンの制作スタッフはこのことにも気づいていて、ナイキのブランドCMの核心に取り込んでいた。

 

ワイデンが社員に求める”失敗を恐れない大胆な発想”というより、真逆のギャンブルをしない、科学的で繊細な制作態度だった。

 

むしろ、死刑囚ゲリー・ギルモアの"LET'S DO IT(やれよ)"にヒントを得て、"JUST DO IT(やるしかない)"を、ナイキの企業スローガンとして提案したワイデンだけが、”失敗を恐れない大胆さ”に挑んでいた。

 

一方、ナイトにとっては、死刑囚の言葉であろうがなかろうが、的確にスポーツ・スピリットを伝達できればよかった。ナイトが、起業の日に自らに言い聞かせた"Just Keep Going(前へ進むしかない)"行動を喚起する言葉と同様の力を、ワイデンのコピーに感じていた。世界で最も記憶されるスローガンが生まれた。

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マイケル・ジョーダンのレジェンドCMとか、ナイキのブランドイメージを高めたCMはたくさんある。しかし、このナイキのコマーシャルを見たとき、最初の1秒で、最後がわかる、なんと予定調和のつまらない広告だと思った。しかし、スポーツシューズに惹かれたナイトの人生を知ったいま、実はこのCMで走っている少年は、早い走者の背中を見て走っていたナイト自身だと思うようになった。そして、”Find Your Greatness(あなた自身の中に偉大さを発見しよう)”と言うコピーにこそ、スポーツシューズを人に薦めるナイトの気持ちが表されている。

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放映後、肥満児を走らせたCMの暴力だと抗議されたが、少年は「このCMの後、6ヶ月で16キロ減量したけど、僕のライフスタイルは変わっていない」と意に介していなかった。

 

アメリカ文化の心臓には、スポーツの血が流れている」とナイトは言い「プラスティックやゴムの塊の販売によく情熱を燃やせると人に言われるが、タバコやビールの販売だと、私はこうも情熱的にはなれなかった」とも言う。

 

アメリカの問題は、たくさんの失敗をしたことではなく、失敗が少ないことだ」とナイトが言うと、失敗自慢でワイデンが応える。ワイデンはナイトの隣人になり”パーティの距離”になって40年経っている。陽気なワイデンの妻も、ホームパーティに招かれていることだと思う。

 

「ハードワークは必須、いいチームは肝要、頭脳と決断力は貴重であり、結果は運がつくり出す」と、”偶然を幸運に変えられる才能”に恵まれたナイトは述懐する。冷徹なビジネスマンの父親デューク・ワイデンに門前払いされながら、熱意の息子、ダン・ワイデンを受け入れ、幸運を呼び込んだナイトには”セレンディピティ”がついている。

 

      (※出典資料は、"Harvard Business Review""Washington Post"など)

 

偶然は素敵②

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shortform.comより引用

(前号より続く)

1年以上経ってようやく、アメリカ人向けのシューズが2足届いた。今までで最高の履き心地だと、ナイトは思った。

 

さっそく、オレゴン大学のバワーマンにプレゼントした。彼の目にかなったら、陸上部の公式シューズにしてもらい、新会社の新製品にしたいという下心もあった。

 

ところが、バワーマンは、プレゼントにダメ出しをした。ダメ出しのメモとともに、ナイトに握手を求め、一緒に会社をやろうと提案した。1964年、ブルーリボン・スポーツ社(オニツカタイガーの米国西海岸の特約販売の会社)が始動した。

 

起業の朝、ナイトが心に誓ったことは「とにかく進むしかない。止まるな。ゴールは設定しない。倒れたところがゴールではない」と、がむしゃらに先に向かった。後に生まれる企業スローガン"JUST DO IT(やるしかない)"は、この時、ナイトの心に種子を宿した。

 

起業第1日目から、プリムス・ヴァリアントにオニツカタイガーを積んで、陸上競技場の横に駐車して、セールスした。ナイトの気持ちを動かしていたのは「バイトで、百科事典や投資信託を売ったが、心は何も感じない鉄の塊だった。一方、靴を売ることはまったく違う。人がこの靴を履いて、毎日数キロ走ることで、世界は住みやすいところになる。自分の能力以上のものを発揮できる。そう信じる私の気持ちを買ってくれていると思えた」。

 

”走る科学者”バワーマンには、新しい目標が生まれていた。陸上トラックが、記録向上のため、土からアンツーカーに敷き変えられることになっていた。従来のスパイクのついた靴は、ウレタンを痛め、使用禁止になる。まったく新しい靴底のスポーツシューズが求められていた。

 

バワーマンも、工夫力では鬼塚に負けていなかった。ワッフルを朝食で食べながら、ワッフルの凸形をした靴底なら鋲のスパイクが必要でなくなると考えた(鬼塚の凹形の”タコの吸盤”の発想を逆転し)スポーツシューズ史上最高のヒット商品”ワッフル・トレイナー”が誕生した。

 

”ワッフル・トレイナー”が誕生するまでは、二人の会社は、今日のパンはあるが、明日はないという自転車操業だった。ベンチャー企業への投資・育成として支援したのが、日本の商社、日商岩井(現・双日)だった。ポートランド支社の皇(すめらぎ)孝之は、ナイトの会社に目をつけたが「連中は、陸上部出身者で、朝から晩まで靴の話。失敗してもへこたれず、試行錯誤を繰り返す。この情熱は何かを変える、化けるかもしれないと、百に三つの確率を追いかける商社マンの勘に頼った」と述懐する。

 

皇の後任者(経理出身ゆえに、数字が全ての”アイスマン”とナイトから呼ばれていた)伊藤は、本社に無断で、ブルーリボン・スポーツ社の億単位の借金を肩代わりして、倒産の危機から救った。このため、伊藤は解雇され、家具を片付け帰国支度をしていると、本社の担当役員から烈火の電話があり、最後に小さな声で「よくやった」と言われた。同じ商社マンとして担当企業を身を張って守った、出来ないことをやった男への賛辞だった。伊藤は泣いた。

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革命的シューズ発売の数年前、1971年、オニツカタイガーとの契約を解消した。オニツカタイガーとの関係が断たれたのは、米国に進出したオニツカタイガーが、ナイトとの契約を無視して、西海岸でも販売し、並行輸入品より我々の商品の方がいいと、ナイトの売り込んだ商品を店頭から排除し始めたので、提携関係を解消した。ブルーリボン・スポーツ社にとって、自立独立しか選択肢はなく、NIKEへ社名変更した窮余の一策だった。

 

周知の事実だが、ギリシャ勝利の女神になぞらえたNIKEを提案したのは、ナイトの陸上部の友人で、NIKE最初の社員、ジェフ・ジョンソンであり、有名なロゴマークは、グラフィック・デザインの学生キャロライン・デビッドソンに、35ドルの制作費(後年、NIKE社の数百株を贈る)を払ったもの。

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1980年代には、スポーツシューズ市場のシェア50%を占め、世界一になって今日に至る。

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偶然を幸福に変えられる”セレンディピティ”の才能があるナイトには、恩を忘れないという大切な資質もあった。彼は、日商岩井の支援なしには、今日のナイキはないことを、全社員に知ってもらうために、オレゴン州ビーバートンの本社には、日本庭園”NISSHO-IWAI GARDEN”を造っていた。

 

ナイトが自叙伝を、皇(すめらぎ)に謹呈した時の返礼「私の孫が、将来この本を読んで、”おじいさんは、世界一の企業のお手伝いをしたと知ってくれればうれしい”」皇のつつましく誇らしげな言葉に、ナイトの目から涙があふれた。

 

(資料はインターネット調べ、およびbsNHK「ナイキを育てた男たち〜"SHOE DOG" とニッポン〜」)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偶然は素敵①

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Phil Knight & Bill Bowerman

「ふとした偶然をきっかけに幸運をつかみ取る才能」を”セレンディピティ”という。(※wikipedia)

 

セレンディピティの男がアメリカにいた。そして、彼は、スポーツシューズをこよなく愛していた。

 

1950年代のアメリカでは、”走るのは、急いでいるとき”であり、”健康のため、運動のため”という理解は、まだ根づいていなかった。

 

街を走る人に対しては、(そんなに急いでるんなら)「馬を買え」と家の窓から罵声。いったいそんなことをして何になるんだというのが、ふつうの考えだった。ましてや、下着のようなパンツ姿で街を走っていたようにも見え、街のお母さんたちは、子供の目を手でおおっていた。

 

そんな頃、オレゴン大学の陸上部にいたのが、フィル・ナイトという学生だった。高校生の頃、8キロ走ってバイト先に通っていたこともあり、走るのが得意だと自分では思っていた。しかし、きゃしゃな体つきの彼は、体力差のある競争相手には、どうしても勝てなかった。

 

そんな彼を救ったのが、ユニークなコーチ、ビル・バワーマンだった。走るフォームよりも、シューズの改良に熱心に取り組んでいた変なコーチだった。選手に違うシューズを次々と履かせて、実験を繰り返していた。体格に恵まれていなかったフィル・ナイトは、彼のギア改良に興味を持った。

 

大学卒業で、”趣味の走り”は終わった。ジャーナリズム学部を卒業したこともあり、父の経営する地方の小さな新聞社へ入ることを考えたが、決心がつかず、1年間の兵役に。

 

その後、彼の心に引っかかっていたものを整理するために、スタンフォード大学院のビジネススクールに入り、論文を書いた。(当時は、ドイツのアディダスが、スポーツシューズの世界を席巻していたこともあり)「日本のスポーツシューズは、(世界最高峰のドイツのカメラを駆逐したように)、ドイツのスポーツシューズを追い抜くか」という彼の推論が、人生を決めることになる。

 

ナイトは、バワーマンが求めているものは、この論文の中にあると思った。誰の手にも入る廉価で、最も優れたスポーツシューズを広めたいと、ナイトは考えるようになった。

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海を越えた日本にも同じ思いを持った鬼塚喜八郎という男がいた。日本にはスポーツシューズ製作のノウハウもなく、その分、彼の創意工夫が全てだった。ゴム工場で働き、ゴムの特性を学ぶことから始めた。

 

1908年、コンバースが世界初のバスケットボールシューズを作り、成果をあげていた。鬼塚は、そのことを知ってか知らずか、日本独自のものを作ろうとしたようだ。フロアへのグリップ力を求められる動作を可能にするため、きゅうりの酢の物のタコを見て、靴底に吸盤をつけることを考えついた。しかし、吸引力が強すぎて転倒・負傷者が続出して失敗。ある時、乗っていたタクシーが急ブレーキをかけて止まった瞬間、鬼塚はひらめいた。自動車ショーに出かけ、車のタイヤの模様「煉瓦積みブロック」パターンを靴底に取り入れて、日本初のバスケットボールシューズを開発。50%の市場シェアを獲得した。

 

1953年には、”足の豆ができて一人前”と言われていたマラソンランナーの足の豆をなくすために、発熱した足をクールダウンする穴あき靴「マジックランナー」を考案。1956年以降、日本五輪の公式シューズとして、オニツカタイガーは認定された。

 

1962年、ナイトは、日本に旅行して、吸い寄せられるように鬼塚喜八郎のいる神戸に向かった。そして、ドイツを追い抜くmade in Japanだと確信した。最良の、そして誰でも買えるスポーツシューズを求めるナイトの情熱は、鬼塚喜八郎を動かした。初対面のアメリカ人に、西海岸の販売権を与え、ナイトが求める体格のいいアメリカ人仕様の製品を新たに作ることを約束した。

 

最初の会議で、オニツカタイガーの役員が「ミスター・ナイト、(まさか、ウチから輸入販売されるのに個人の資格でおっしゃっているわけはないと思いますが)あなたが所属する会社名を教えてください」と問われ、とっさに「(かつて出場した競技会の名前)ブルーリボン・スポーツ社」と嘘を言った。米国に帰って、ナイトは、早速Blue Ribbon Sports社を登録することになる。

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バワーマン、鬼塚、スポーツシューズに情熱的に取り組む世界でも稀有な二人。探してもそう簡単に遭遇できるものではない。

 

偶然を幸運に変える”セレンディピティ”の才能を、ナイトに感じる。

 

しかし、偶然を幸運に導く力は、自然に湧き出るものではない。髪をかきむしり、考えて、考え尽くす不断の努力が、幸運を運んでくれるものではないか。

 

しかし、努力を重ねたナイトは、その才能に気づいていない。努力の成果だと思っている。”セレンディピティ”とは、実は「よみ人しらずの短歌」のようなものだと言える。

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さて、口から出まかせのBlue Ribbon Sports社に、鬼塚喜八郎から靴が届くだろうか。世界一への道がどう拓かれるか。

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                      (※記載資料は、インターネット調べによる)