モノクロームの恋

"パパスカフェ"にはよく行く。光沢のある茶色の陶器タイルの床が好きだ。鼻腔をくすぐる、香ばしいシナモントーストや、形を崩さず、行儀よく口に運びこめるホットプレスサンドウィッチが運ばれてくると、ゆっくり幸せになる。カフェオレの香りが漂う居心地のいい場所だ。

earnest hemingway

さかのぼること70数年、”パパ”ヘミングウェイは、うつ病で悩んでいた。とにかく資料を集めても頭に入らない。

 

自動車事故の負傷以来、ひどい偏頭痛から逃れるために痛飲、そして高血圧、肥満、糖尿病へ。親友の死亡などが追い討ちをかけ、うつ病を発症した。ほぼ3年間仕事にならなかった。

 

しかし、仕事にならなくても困らない。ヘミングウェイの代表作といわれる「陽はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」「キリマンジャロの雪」など、発症前の27歳から41歳までに上梓していた。

 

後年出版される「海流のなかの島々」や「エデンの園」などの掌編もあったが、発表できるものではなく、時間が止まった沼のように続くスランプだった。

 

4番目の妻で、元タイム誌の記者だったメアリは、転地療法を提案し、二人のヨーロッパ旅行が始まった。ベニスに数ヶ月滞在し、ヘミングウェイは18歳の美大生、アドリアーナと出会い、恋に落ちた。黒髪、ギリシャ彫刻のミューズのようだったとヘミングウェイは思った。うつ病が良くなるなら、また年齢差も31歳あり、そのうえ糖尿病でもあり、妻は落ち着いて、状況を見守っていた。

hemingway & adriana ivancich

キューバの別荘に戻ったヘミングウェイは、アドリアーナをモデルにした小説を書こうと思った。そのためには、彼女をそばに置きたいとヘミングウェイが言う。妻のメアリもそこまでお人好しではない。母親同伴で、アドリアーナをキューバに招いた。

 

2階にふたりを住まわせ、彼の仕事部屋を3階にとった。昼間、美大生のアドリアーナは窓からの風景を描き過ごした。夜は、鼻先に人参をぶら下げた馬が、街を案内した。

二人の世界にうちとけないキューバの友人たち

「河を渡って木立の中へAcross the River and into the Trees」を一気に書き上げた。退役将校が、戦争の疲れをいやすために田舎を旅行し、少女に巡り合う。プラトニックな恋を描いた掌編だった。アドリアーナとのベニスでの出会いそのものだった。”ヘミングウェイは終わった”と、批評家から嘲笑とともに酷評された。

 

発奮したヘミングウェイは、8週間で、ピューリッツァー賞受賞の「老人と海」のドラフトを仕上げた。海上の4日間に、老いることの無慈悲さを凝縮し、夢を追う老人の頑強さを描いた。ヘミングウェイが「私の最高の作品」と周囲に語った。

 

老人と海」の原案は、実は、漁師の息子と母の物語だった。しかし、加齢がナイフのように肉体と精神の強靭さを削ぎ落とすことを、31歳違いの女性が気づかせてくれた。これは、すべての男に通じる感覚であり、意識だと思い、原案を棄て、新たなテーマに設定した。

adriana's paint

老人と海」の初版本の表紙は、アドリアーナの水彩画「キューバの漁港」が飾った。遠近法を無視した構図で、ヘミングウェイも上等な絵だとは思っていなかっただろう。しかし、気づきを与えてくれたアドリアーナへの感謝の気持ちを表したかった。

 

出版社が猛反対したことは言うまでもない。その後の刷版からは、彼女の絵画がなくなった。彼女の経歴書には、画家ではなく、詩人と記されている。これはヘミングウェイが彼女の詩集を出版させたことによる。

 

しかし、プラトニックもそうは続かない。アドリアーナと疎遠になったのちも、彼女の兄はヘミングウェイと文通を続けた。同じ大戦で負傷した者同士の絆だった。足の不自由な電気技師にキューバで職を見つけ、別荘に住まわせてくれたヘミングウェイへの恩もあった。

 

こんなに優しいヘミングウェイも、3番目の妻には優しくなかった。パリの浮気が発覚して怒鳴り込んでくる彼女に、特派員が搭乗できる飛行便をとってやらず、ドイツのUボートが出没する大西洋の船便で来させた。3度目の離婚届が叩きつけられた。

 

ノーベル賞が授与された1954年を境に、ヘミングウェイに吹く風が大きく変わり始めた。

 

アドリアーナの存在を消し去り、パリの浮気相手だったメアリとの結婚も8周年を迎えていた。彼女へのクリスマス・プレゼントに、アフリカ旅行を計画した。そして、飛行機事故。ヘミングウェイは火傷、脳から骨髄が漏れ出す負傷を負い、メリーは肋骨2本を折り、もっと大きな病院へ搬送するはずの飛行機が、さらに事故に遭遇。

 

二人は死亡したという憶測記事が出回った。ベッドでそれを笑い飛ばしながら、ヘミングウェイ夫婦は快復していった。

 

その後の計画した釣り旅行では、河岸の薮火災に遭遇。火傷にとどまらず、頭蓋骨骨折、腎臓と肝臓を一部損傷した。さらにスペインの撮影旅行でも飛行機事故に遭い、瀕死の負傷。死ななかったのが不思議なくらいの災難の連続。満身創痍の60歳だった。

 

1960年ごろには、キューバに別荘を持っていたことからFBIからロシアのスパイではないかと疑われ、尾行、全て盗聴されていたことが判明した。

 

もはや米国政府すら信じられなくなり、猜疑心のかたまりになった。アイダホの自宅では猟銃を常に持ち歩いていたという。そして、傷の痛みから逃れるために飲酒を続けた。

 

1961年7月2日、62歳のヘミングウェイは、アバクロンビーで買った銃で、人生に終止符を打った。フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー(the great gatsby)」を読んで記者から小説家を目指した男の最期だった。

 

それから19年後、アドリアーナは、ヘミングウェイへの想いを詩にして自費出版。1983年、53歳、うつ病で自らの命を絶った。