もう一つの人生

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Amelia Earhart

アメリア・イアハートには、コインの裏表のような異なる人生模様があった。

 

1937年、赤道上空を飛行するため最長距離になる世界一周飛行を、彼女は明日に控えていた。

 

思えば、1923年、米国16番目の女性パイロットとして免許を取得。5年後、1928年大西洋”便乗”飛行でアメリカン・アイドルになる。それから4年後、1932年大西洋女性単独飛行に成功。その後5年間、全米を飛行し、アイドル・パイロットとして、各地で熱狂的な歓迎をうけ、数えきれない講演会を行った。

 

アメリカン・ドリームになったアメリアは、10年間連れ添った夫、ジョージ・パットナムから距離をおきたいと思い、今回の最長距離飛行を思い立った。

 

夫を嫌いになったというより、もともと好きではなかった。ハーバード大卒で、興行師で出版業、プロのポーカープレイヤーという怪しいキャリアを持っていた彼を充分に理解も信頼もしていなかった。

 

彼とはあくまで仕事上の付き合いであり、ましてや当時、彼は既婚者で、恋愛対象でもなかった。しかし、アメリアと出会って3年後、彼は、画材メーカーCRAYOLAの社長令嬢の妻と離婚することになる。

 

彼の6度のプロポーズを断り続けた後、結婚前に、夫婦平等契約書を突きつけたには、理由があった。興行師の夫に配下のタレントのように、現地に飛んで講演する過酷なスケジュールを課され、働き続けていた彼女のせめてもの抵抗だった。当時、疲れきった彼女に同情したライターの告発本もあった。

 

姓もイアハートを名乗り続け、記者から「なぜ、ミセス・パットナムを名乗らないのか」と聞かれ、鼻で笑ったと伝えられている。そのうち、”ミスター・イアハート”と夫が呼ばれるようになった。

 

しかし、彼が彼女の好みでなくても、辣腕の興行師兼マネージャーの彼なくしては、一歩も前に進まないことも彼女にはわかっていた。結婚当初、略奪愛を疑われたが、恋愛感情よりもビジネスを優先させた彼女は意に介さなかった。(写真は1937年のイアハート夫妻。40歳の彼女の表情が、いろいろあったことを物語っている)

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1937年5月、彼女が招聘教授をする名門ペルデュー大学から寄贈されたロッキード社製の飛行機を駆って、約2ヶ月後の7月4日にゴールになるカリフォルニア州オークランドを離陸した。

 

しかし、7月2日にニューギニア近海で消息を絶った。南アメリカ〜東アフリカ〜アジア〜オーストラリアを経て42日目、あと僅か2日でオークランドのゴールだった。

 

懸命な捜索は、80年後の2017年まで続いたが、遺体も機体も発見できなかった。夫のパットナムから遺体捜索への支援・協力を申しでた記録はなく、事故2年後の1939年に死亡が認定されてから数ヶ月で、3度目の結婚をした。また、事故直前のアメリアの最後の悲痛の叫びが込められた交信記録を出版することに、彼はちゅうちょしなかった。冷めた夫婦関係だった。

 

アメリアは、自分の幸せをすり減らし、パイロットとしての野望を貫いた女性と言えるかも知れない。もし、男たちが彼女の前に現れなかったら、彼女の人生はどうなっただろうかとも考える。