女リンドバーグ

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Amelia Earhart

すべてに初めがある。そして、初めての人がいる。「初めて」は、さまざまなビジネスチャンスを生む、価値転換のマーケティングがある。このことは、昔からビジネスマンは気づいていた。

 

チャールズ・リンドバーグが単独で大西洋横断飛行を成功させたのが、1927年5月。その数ヶ月後には、「初めて」の女性パイロットを大西洋横断させようとするプロジェクト・チームがつくられていた。

 

チームリーダーのアメリカ人の富豪、ヒルトン・ラレイは女性パイロットの候補をあげるようにチームに指示をだした。選ぶ基準はシンプル、新聞のフロントページが似合うルックスのいい女性だった。理由もシンプル、スエーデン移民の子のリンドバーグが、熱狂的にうけたのは端正なルックスにあったと分析していた。

 

大西洋横断飛行で最もこわいのは、墜落事故。このリスクを避けるために、男性パイロットとナビゲーターを待機させていた。要は、女性が乗っていれば、操縦桿を握っていなくても、大西洋横断飛行をした”初の女性パイロット”が誕生することになると、金儲けに走る男たちは考えた。

 

ヒルトン・ラレイから「大西洋を飛んでみないか?」という誘いの電話をうけたのは、飛行研修所の卒業生だった31歳のアメリア・イアハート

 

パイロット免許を取得してから5年、コロンビア大学を中退してまで取得する価値があったのか、懐疑的になっていた。ソーシャルワーカーとして働きながら、わずかな賞金目当ての飛行レースとか、イベント飛行などをしていた彼女にとっては、願ってもないオファーだった。

 

滞空時間や飛行技術にも自信がない彼女の不安を見透かすように「大丈夫だ。男のパイロットとナビゲーターがいるから、キミは針路を外れていないか見てればいいから」と電話の向こうの声が響いた。彼女は、今回のフライトが、今後の飛行の勉強になればいいと割り切って、依頼を引き受けた。

 

成功後の彼女は、正直だった。記者たちに対して「私は何もしていません。麻袋に入れられたジャガイモのように、ごろごろしていただけ、不快な旅でした」と言った。しかし、プロジェクトチームの男たちの読み通り、”初めて大西洋を飛んだ女性”は、(人々が聞きたがっていたように)、事実は都合よく美化され、世の中に明るい話題を提供することになった。また、フーバー大統領主催のホワイトハウスのレセプション・パーティが、彼女の成功を承認することになった。

 

アメリカのアイドルになった彼女は、”レディ・リンド”と呼ばれ、全米を講演旅行して明るい話題を振りまいた。しかし、彼女は脚光を浴びていても、大西洋上空では、”ジャガイモ”だったことを忘れることはなかった。

 

リンドバーグの偉業から5年後の1932年、彼が着陸したフランス、パリを目指して大西洋横断飛行に挑戦したが、5月の荒天のため、北アイルランドに着陸。初の女性の大西洋横断飛行は、14時間56分だった。(パリに到達したリンドバーグのように33時間30分かかっていたら、彼のように睡魔に襲われて墜落事故の可能性もあり、ショートカットした着陸点は、むしろ幸運だったかも知れない)。

 

その後、全米女性パイロット機構の初代会長、雑誌コスモポリタンの編集助手になり、活動的な女性ファッションを提案したり、飛行機会社のTWAの広報を委嘱されたり、切手にもなり、広告でも引っ張りだこ。愛くるしいアメリア・スマイルで全米を魅了した、レジェンドパイロットとして記憶される女性になった。

 

アメリカン・アイドルは、「初めて」のマーケティングを追いかけた男たちに、ローリスクで大いなるリターンを提供した。

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話変わって、「初めて」を追いかけて、失敗しかかったドイツのバーガーキングの広告。初めてベジタリアン・バーガーを売り出したのですが、誰も注文してくれない。

 

”中身は違っても、名前は同じバーガーキング(セレブと同姓同名のジュリア・ロバーツオプラ・ウィンフリー素人登場)”と訴えているネットアドです:

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