偶然は素敵②
(前号より続く)
1年以上経ってようやく、アメリカ人向けのシューズが2足届いた。今までで最高の履き心地だと、ナイトは思った。
さっそく、オレゴン大学のバワーマンにプレゼントした。彼の目にかなったら、陸上部の公式シューズにしてもらい、新会社の新製品にしたいという下心もあった。
ところが、バワーマンは、プレゼントにダメ出しをした。ダメ出しのメモとともに、ナイトに握手を求め、一緒に会社をやろうと提案した。1964年、ブルーリボン・スポーツ社(オニツカタイガーの米国西海岸の特約販売の会社)が始動した。
起業の朝、ナイトが心に誓ったことは「とにかく進むしかない。止まるな。ゴールは設定しない。倒れたところがゴールではない」と、がむしゃらに先に向かった。後に生まれる企業スローガン"JUST DO IT(やるしかない)"は、この時、ナイトの心に種子を宿した。
起業第1日目から、プリムス・ヴァリアントにオニツカタイガーを積んで、陸上競技場の横に駐車して、セールスした。ナイトの気持ちを動かしていたのは「バイトで、百科事典や投資信託を売ったが、心は何も感じない鉄の塊だった。一方、靴を売ることはまったく違う。人がこの靴を履いて、毎日数キロ走ることで、世界は住みやすいところになる。自分の能力以上のものを発揮できる。そう信じる私の気持ちを買ってくれていると思えた」。
”走る科学者”バワーマンには、新しい目標が生まれていた。陸上トラックが、記録向上のため、土からアンツーカーに敷き変えられることになっていた。従来のスパイクのついた靴は、ウレタンを痛め、使用禁止になる。まったく新しい靴底のスポーツシューズが求められていた。
バワーマンも、工夫力では鬼塚に負けていなかった。ワッフルを朝食で食べながら、ワッフルの凸形をした靴底なら鋲のスパイクが必要でなくなると考えた(鬼塚の凹形の”タコの吸盤”の発想を逆転し)スポーツシューズ史上最高のヒット商品”ワッフル・トレイナー”が誕生した。
”ワッフル・トレイナー”が誕生するまでは、二人の会社は、今日のパンはあるが、明日はないという自転車操業だった。ベンチャー企業への投資・育成として支援したのが、日本の商社、日商岩井(現・双日)だった。ポートランド支社の皇(すめらぎ)孝之は、ナイトの会社に目をつけたが「連中は、陸上部出身者で、朝から晩まで靴の話。失敗してもへこたれず、試行錯誤を繰り返す。この情熱は何かを変える、化けるかもしれないと、百に三つの確率を追いかける商社マンの勘に頼った」と述懐する。
皇の後任者(経理出身ゆえに、数字が全ての”アイスマン”とナイトから呼ばれていた)伊藤は、本社に無断で、ブルーリボン・スポーツ社の億単位の借金を肩代わりして、倒産の危機から救った。このため、伊藤は解雇され、家具を片付け帰国支度をしていると、本社の担当役員から烈火の電話があり、最後に小さな声で「よくやった」と言われた。同じ商社マンとして担当企業を身を張って守った、出来ないことをやった男への賛辞だった。伊藤は泣いた。
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革命的シューズ発売の数年前、1971年、オニツカタイガーとの契約を解消した。オニツカタイガーとの関係が断たれたのは、米国に進出したオニツカタイガーが、ナイトとの契約を無視して、西海岸でも販売し、並行輸入品より我々の商品の方がいいと、ナイトの売り込んだ商品を店頭から排除し始めたので、提携関係を解消した。ブルーリボン・スポーツ社にとって、自立独立しか選択肢はなく、NIKEへ社名変更した窮余の一策だった。
周知の事実だが、ギリシャの勝利の女神になぞらえたNIKEを提案したのは、ナイトの陸上部の友人で、NIKE最初の社員、ジェフ・ジョンソンであり、有名なロゴマークは、グラフィック・デザインの学生キャロライン・デビッドソンに、35ドルの制作費(後年、NIKE社の数百株を贈る)を払ったもの。
1980年代には、スポーツシューズ市場のシェア50%を占め、世界一になって今日に至る。
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偶然を幸福に変えられる”セレンディピティ”の才能があるナイトには、恩を忘れないという大切な資質もあった。彼は、日商岩井の支援なしには、今日のナイキはないことを、全社員に知ってもらうために、オレゴン州ビーバートンの本社には、日本庭園”NISSHO-IWAI GARDEN”を造っていた。
ナイトが自叙伝を、皇(すめらぎ)に謹呈した時の返礼「私の孫が、将来この本を読んで、”おじいさんは、世界一の企業のお手伝いをしたと知ってくれればうれしい”」皇のつつましく誇らしげな言葉に、ナイトの目から涙があふれた。
(資料はインターネット調べ、およびbsNHK「ナイキを育てた男たち〜"SHOE DOG" とニッポン〜」)