ホワイトデーは甘く

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MODIGLIANI

雪でぬかるんだ泥道で、頭をうなだれている男がいた。彼の名前は、カール・ベンツ。

 

1888年に、彼は自動車をつくったが、誰も見向きもしてくれなかった。その12年後の1900年、ウオールストリート・ジャーナル紙の社説「最近、自動車を街で見かけるが、舗装道路がなくては、役に立たない。やはり山野でもどこでも走れる馬車に勝るものはない。自動車は、一過性の流行になるだろう」と誤った予言をしていた。

 

これに敏感に反応したのが、ヘンリー・フォードだった「庶民の意見を聞いていたら、”これからはもっと早く強く走れる馬車の時代だ”というだろう。マーケティングを一切無視して、私のガッツ・フィーリングで決める」と言って、車の大量ライン生産に乗り出した。

 

これからは、政治を動かして道路を舗装させると、カールはもがいた。しかし、その”政治の道”は、いつ果てるとも知れない泥道だった。

 

そんな夫を見ていた妻のバーサ・ベンツは、夫のために何かできないか考えた。

 

”このクルマで、私が運転して走れば、女性でも動かせる便利なものだと、街の人々は思ってくれるはず”と考え、会社第一号のテストドライバーになり、街へ向かった:

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たちまち街の話題になり、会社の広報ウーマンになり、ベンツが広まるきっかけをつくった。

 

世界初のテスト・ドライバーだけでなく、女性の機転が利いた発明は他にもたくさん。

 

●エンジンの排出熱を何かに使えないかと「車内暖房」を考えついたのは、マーガレット・ウイルコックという女性技師(1893)

●クルマまわりで言えば、雨の日になくてはならない「ワイパー」を発明したのは、メアリー・アンダーソン(1903)

●薬を飲むのではなく、血管に直接入れれば早く効くんだけどという医師の言葉で「注射器」を発明したのは、レティティア・ギアー(1899)

●水圧を使って食器を洗えないかと「食洗機」を発明したジョセフィン・コックレイン(1887)

●お店で商品を入れてくれる、あの茶色の「ペーパーバッグ」の発明はマーガレット・ナイト(1871)。底が抜けないようになっている仕組みは、女にはできない、これは俺が発明したと法廷に持ち込んだ男チャーリー・アナンは敗訴。

●入口が出口と考える男には気付けない「非常口」の発明は、アナ・コネリー(1887)

●「ビール」。古代メソポタミアの女性が発酵し、(”キミ、最近、大麦臭いな”と夫に言われながらも)売り、(”昼間から飲んでんじゃないよ”と言われながらも)自分も飲んでいた、と粘土板に楔形文字で記録されている(BC5000)。まいりました。

 

最初のコンピュータ・ソフトウエア・プログラムも女性だった。もはや書ききれない。そんな女性とともに、モジリアーニの女性たちも素晴らしいと思う。

 

 

 

 

博士の異常な愛を感じる

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Dr. Strangelove

ロシア・ウクライナ戦争は、夫婦喧嘩だと捉えている人が多いのではないか。

 

夫婦喧嘩は、犬も喰わないと、賢いアメリカ人も加わらないと明言した。夫婦は別居しているが、妻からの離婚届を見て、そんなもの出せる身分かと、夫は妻を罵倒している。「だいたい、お前は、文句ばっかりだ。8年目に、海が見えるクリミヤの部屋をゆずれと言った時も、そうだった」と夫は責める。

 

冷酷な夫に耐えて、妻はつらい思いをしている。いつもそうだが有事には意見がまとまらず、ただオロオロしているだけのソーシャルワーカーの国連君も遠巻きに見ているだけだ。

 

戦火から守ってくれる駆け込み寺のNATOさんも、うちは会員制だしと、つれない返事。以前ウクライナを会員にしようという話が出た時、フランスとドイツが反対した経緯があり、今頃になって、この2カ国が身を乗り出してウクライナの相談に乗っている。

 

偏見に満ちたブラジル大統領の言葉がひどい。「同情はするけど、コメディアンに国の運命を託した奴らの気持ちがわからん。うちは、農業肥料の2/3をロシアから買っているし、ビミョーだね」さすが、”南米のトランプ”だ。

 

リーダーがコメディアンであろうがなかろうが、負け戦になるのは、始まる前からみんなわかっている。

 

ゼレンスキー大統領が、必死の思いでアメリカに助けを求めた時「国外に出た方がいい」と助言され、「私は武器を待っている。タクシーではない」と反論した。

 

コメディアンでなく、普通の政治家だったら、”時は我に味方せず。ケンドジュウライを期す”とか言って、いち早く安全な国に亡命していただろう。一緒に戦ってくれる人物を選んだウクライナ人は正しいと言える。

 

この戦争の残酷なところは、弱い者の側にカメラがあり、こうして負けていくんだというプロセスをまざまざと見せつけられている。

 

「戦争は、女の顔をしていない」というノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作がある。男の言葉で語られていた戦争を、女の言葉で語ろうとしたドキュメンタリーだが、この戦争では、弱者の叫びがネットを駆けめぐっている。

 

「我々には、民族と家族と友を想う正義がある。相手には、何もない」というゼレンスキー大統領の言葉が、人々を動かした。

 

しかし、家族と別れて、望んでもいない戦いに向かう男たちの口は重い。モロトフ爆弾を作っているキエフの男たちを見ると、竹槍で戦おうとした日本を思い出させ、絶望的な思いにさせる。

 

ウクライナキエフの駅でバーをやっている女性が「母をポーランドに送り出したけど、私は残る。避難していくみんなに食事を出している」あなたは避難しないのですか?「なぜ、私が逃げるの?この国から逃げるのは、ロシア人でしょ」という言葉が耳に残っている。

 

2017年、映画監督のオリバー・ストーンから観るように薦められたスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」※のファンなのか、ロシアの大統領は、原爆の使用を否定せず、ウクライナ人の恐怖をあおり、愛国心を抹殺しようとしている。(※https://www.youtube.com/watch?v=AK7-PMdvQ1Y)

 

ウクライナ人の生命時計が止まりかけていると思ったら、今や世界一のドローン生産国になったトルコのドローンを大量装備し、ロシアの侵攻を食い止めているとの報道(Time誌)。この戦果がTwitterに掲載されると、2日間で300万閲覧があったそうだ。ドローンに装備する核弾頭を、窮地のゼレンスキーが求めているとのツイートもある。

 

(twitter画像はコピー不可→YouTubeよりドローンTB2性能の実戦実証ビデオ)

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ロシア人の動きも早い。3月14日には、親ロ・反米のトルコ大統領に折衝:「お宅のドローンを、うちで全部買うから」「いいけど、お宅のルーブルは通用しないし、ビサ、アメックス、マスターカードもダメだし」と言ったかどうか不明。

 

世界は、”博士の異常な愛情(Dr.StrangeLove)”の核戦争が、現実になろうとしているのか。

 

映画では、”核戦争後は、100年間の地底生活を要求され、政治家と特定の人間には特例があり、一夫多妻制度に移行すると発表。政治家がニンマリする”というブラックユーモアも現実になれば面白いが。コロナの後に戦争、異常な妄想がふつふつ湧いてくる。

 

 

 

もう一つの人生

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Amelia Earhart

アメリア・イアハートには、コインの裏表のような異なる人生模様があった。

 

1937年、赤道上空を飛行するため最長距離になる世界一周飛行を、彼女は明日に控えていた。

 

思えば、1923年、米国16番目の女性パイロットとして免許を取得。5年後、1928年大西洋”便乗”飛行でアメリカン・アイドルになる。それから4年後、1932年大西洋女性単独飛行に成功。その後5年間、全米を飛行し、アイドル・パイロットとして、各地で熱狂的な歓迎をうけ、数えきれない講演会を行った。

 

アメリカン・ドリームになったアメリアは、10年間連れ添った夫、ジョージ・パットナムから距離をおきたいと思い、今回の最長距離飛行を思い立った。

 

夫を嫌いになったというより、もともと好きではなかった。ハーバード大卒で、興行師で出版業、プロのポーカープレイヤーという怪しいキャリアを持っていた彼を充分に理解も信頼もしていなかった。

 

彼とはあくまで仕事上の付き合いであり、ましてや当時、彼は既婚者で、恋愛対象でもなかった。しかし、アメリアと出会って3年後、彼は、画材メーカーCRAYOLAの社長令嬢の妻と離婚することになる。

 

彼の6度のプロポーズを断り続けた後、結婚前に、夫婦平等契約書を突きつけたには、理由があった。興行師の夫に配下のタレントのように、現地に飛んで講演する過酷なスケジュールを課され、働き続けていた彼女のせめてもの抵抗だった。当時、疲れきった彼女に同情したライターの告発本もあった。

 

姓もイアハートを名乗り続け、記者から「なぜ、ミセス・パットナムを名乗らないのか」と聞かれ、鼻で笑ったと伝えられている。そのうち、”ミスター・イアハート”と夫が呼ばれるようになった。

 

しかし、彼が彼女の好みでなくても、辣腕の興行師兼マネージャーの彼なくしては、一歩も前に進まないことも彼女にはわかっていた。結婚当初、略奪愛を疑われたが、恋愛感情よりもビジネスを優先させた彼女は意に介さなかった。(写真は1937年のイアハート夫妻。40歳の彼女の表情が、いろいろあったことを物語っている)

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1937年5月、彼女が招聘教授をする名門ペルデュー大学から寄贈されたロッキード社製の飛行機を駆って、約2ヶ月後の7月4日にゴールになるカリフォルニア州オークランドを離陸した。

 

しかし、7月2日にニューギニア近海で消息を絶った。南アメリカ〜東アフリカ〜アジア〜オーストラリアを経て42日目、あと僅か2日でオークランドのゴールだった。

 

懸命な捜索は、80年後の2017年まで続いたが、遺体も機体も発見できなかった。夫のパットナムから遺体捜索への支援・協力を申しでた記録はなく、事故2年後の1939年に死亡が認定されてから数ヶ月で、3度目の結婚をした。また、事故直前のアメリアの最後の悲痛の叫びが込められた交信記録を出版することに、彼はちゅうちょしなかった。冷めた夫婦関係だった。

 

アメリアは、自分の幸せをすり減らし、パイロットとしての野望を貫いた女性と言えるかも知れない。もし、男たちが彼女の前に現れなかったら、彼女の人生はどうなっただろうかとも考える。

 

 

 

 

 

 

 

女リンドバーグ

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Amelia Earhart

すべてに初めがある。そして、初めての人がいる。「初めて」は、さまざまなビジネスチャンスを生む、価値転換のマーケティングがある。このことは、昔からビジネスマンは気づいていた。

 

チャールズ・リンドバーグが単独で大西洋横断飛行を成功させたのが、1927年5月。その数ヶ月後には、「初めて」の女性パイロットを大西洋横断させようとするプロジェクト・チームがつくられていた。

 

チームリーダーのアメリカ人の富豪、ヒルトン・ラレイは女性パイロットの候補をあげるようにチームに指示をだした。選ぶ基準はシンプル、新聞のフロントページが似合うルックスのいい女性だった。理由もシンプル、スエーデン移民の子のリンドバーグが、熱狂的にうけたのは端正なルックスにあったと分析していた。

 

大西洋横断飛行で最もこわいのは、墜落事故。このリスクを避けるために、男性パイロットとナビゲーターを待機させていた。要は、女性が乗っていれば、操縦桿を握っていなくても、大西洋横断飛行をした”初の女性パイロット”が誕生することになると、金儲けに走る男たちは考えた。

 

ヒルトン・ラレイから「大西洋を飛んでみないか?」という誘いの電話をうけたのは、飛行研修所の卒業生だった31歳のアメリア・イアハート

 

パイロット免許を取得してから5年、コロンビア大学を中退してまで取得する価値があったのか、懐疑的になっていた。ソーシャルワーカーとして働きながら、わずかな賞金目当ての飛行レースとか、イベント飛行などをしていた彼女にとっては、願ってもないオファーだった。

 

滞空時間や飛行技術にも自信がない彼女の不安を見透かすように「大丈夫だ。男のパイロットとナビゲーターがいるから、キミは針路を外れていないか見てればいいから」と電話の向こうの声が響いた。彼女は、今回のフライトが、今後の飛行の勉強になればいいと割り切って、依頼を引き受けた。

 

成功後の彼女は、正直だった。記者たちに対して「私は何もしていません。麻袋に入れられたジャガイモのように、ごろごろしていただけ、不快な旅でした」と言った。しかし、プロジェクトチームの男たちの読み通り、”初めて大西洋を飛んだ女性”は、(人々が聞きたがっていたように)、事実は都合よく美化され、世の中に明るい話題を提供することになった。また、フーバー大統領主催のホワイトハウスのレセプション・パーティが、彼女の成功を承認することになった。

 

アメリカのアイドルになった彼女は、”レディ・リンド”と呼ばれ、全米を講演旅行して明るい話題を振りまいた。しかし、彼女は脚光を浴びていても、大西洋上空では、”ジャガイモ”だったことを忘れることはなかった。

 

リンドバーグの偉業から5年後の1932年、彼が着陸したフランス、パリを目指して大西洋横断飛行に挑戦したが、5月の荒天のため、北アイルランドに着陸。初の女性の大西洋横断飛行は、14時間56分だった。(パリに到達したリンドバーグのように33時間30分かかっていたら、彼のように睡魔に襲われて墜落事故の可能性もあり、ショートカットした着陸点は、むしろ幸運だったかも知れない)。

 

その後、全米女性パイロット機構の初代会長、雑誌コスモポリタンの編集助手になり、活動的な女性ファッションを提案したり、飛行機会社のTWAの広報を委嘱されたり、切手にもなり、広告でも引っ張りだこ。愛くるしいアメリア・スマイルで全米を魅了した、レジェンドパイロットとして記憶される女性になった。

 

アメリカン・アイドルは、「初めて」のマーケティングを追いかけた男たちに、ローリスクで大いなるリターンを提供した。

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話変わって、「初めて」を追いかけて、失敗しかかったドイツのバーガーキングの広告。初めてベジタリアン・バーガーを売り出したのですが、誰も注文してくれない。

 

”中身は違っても、名前は同じバーガーキング(セレブと同姓同名のジュリア・ロバーツオプラ・ウィンフリー素人登場)”と訴えているネットアドです:

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パール男子

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銀座通り、女性用のトートバッグを脇に抱えて、シルバーグレイの髪をなびかせて歩いている男性がいた。Iさんに違いないと思い、小走りで追う。「Iさん」と背中に声をかけた、振り向く直前に、人違いであることがわかった。とっさに彼を追い越して手をかるく振って、前の幻のIさんを追った。

 

お馬鹿なあわて者が、横目にミキモトを見る。菅田将暉のポスターが目に入った。まさかのパール男子を追いかけているミキモトに軽いショックをうけた。地下鉄を降りると、壁面のデジタルサイネージでも、彼の胸もとで冷たいパールが揺れていた。

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キャンペーンが成功するにも、失敗するにも理由がある。この場合、コロナ禍という失敗する理由がすでに”ある。

 

ましてや、地球温暖化の影響で、アコヤガイの真珠の育ちが悪く、小粒になっていると聞く。希少化する真珠に付加価値をつけていくマーケティングの常道にさからって、新しいターゲットを求め、ポピュラー化する判断に誤りはないのだろうか。

 

パール男子は、チープで退廃的なゴスロリ・ファッションから生まれた。高級品種の真珠しかとり扱わないミキモトが、パール男子をどう昇華させるかで成功、不成功が決まる。

 

エルメスが、デザイナーを先鋭的なジャン=ポール・ゴルチェに変えても、あくまで顧客に向けた”エルメス流ゴルチェ”を展開したと聞く。”ミキモト流パール男子”は、顧客にどう響くのか疑問だ。

 

ミキモトも同様の疑問と不安もあっただろう。そこで、大きな賭けに出た。コモ デ ギャルソンとコラボし、グローバル・キャンペーンを展開。反骨のパール・ジュエリーのジェンダーレスを、世界に発信した。

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インバウンドの富裕層が期待できない今、ミキモトが打った窮余の策だったと推察する。”真珠革命”の決断に感服する。「世界の女性を真珠で飾りたい」と言った御木本幸吉の思いや、如何に。

 

これで、65万のパールネックレスをつけたIさんなら、後ろからでも間違えないだろう。

 

ミキモトが、間違った人を追いかけていないことを、通行人は祈る。

 

 

 

メールルームから来た男

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Hal Riney

映画「マッド・マン」で描かれていたように、'60年代のトップクラスの広告会社は、東海岸の有名大学卒業者が就職し”エリート・ヒエラルキー”ができていた。それを支えていたのが、同じアイビーリーグの企業経営者たちだった。

 

ある日、そのライオンたちの前に、ネズミが現れた。

 

ハル・レイニーは、地方の大学を卒業し、陸軍の広報に2年勤務して、広告会社を目指し、憧れのBBDOに就職した。

 

「誰が彼を採用したんだ?陸軍の広報じゃ、うちでは使い物にならないだろう」というわけで、メールルームに配属された。彼には、朝から夕方まで、会社宛の郵便物を仕分け、社員に配達する業務が待っていた。

 

しかし、彼は、トップクリエイターに毎日でも会えることに喜びを感じていた。そして、部屋の壁に貼られた彼らの広告について感想や意見を言った。ついには「あのメッセンジャーボーイ、面白いじゃないか」となって、11年後には、デザイナー、アートディレクター、ヘッド・アートディレクター、クリエイティブディレクターへと昇進した。

 

しかし、”メールルームから来たクリエイティブ・ディレクター”には、周囲は冷たかった。仕事依頼もなく、部下もつかなかった。一人でクライアントを開拓しなければならなかった。

 

'70年のある日、小さな州の小さな銀行に”飛び込み営業”をした。彼にとって幸運だったのは、その銀行が自分達の問題をはっきり捉えていたことだった。「高齢者の顧客ばかりで、若年層の顧客を取り込まないと、先細りになっていく。どうすればいいのか、キミの提案が欲しい」と言われた。

 

「若者には、言葉なんて必要ない、音楽だ。金庫にある金をかき集めて、若者に向けた音楽を作ってくれるミュージシャンを探すべきだ。若者の気分とか夢とかを歌ってくれる作品にすればいい」と彼は答えた。

 

会社に戻って、プロデューサーやコピーライターやデザイナーに仕事を依頼したが「予算は少ないし、銀行の仕事は面白くない、今は忙しい」と、みんなに断られた。

 

孤軍奮闘、彼は一人でミュージシャンを探した。そして、出来上がった音楽"We've only just began"は、後日カーペンターズがカバーして、全米ヒットチャートの1位になった。

 

彼にとって人生初めて企画したテレビCMは、彼と同じようにドキドキしている初々しい”サラリーマン最初の日”を描いた。

 

コピーは、不安いっぱいの人々にやさしく語りかけた:"You've got a long way to go, we'd like to help you get there"(あなたのこれからの道は長い。私たちにお手伝いさせてください)。

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このCMは、効果てきめんだった。今までこの銀行に足を向けたことのない若者を顧客として迎えることができた。しかし、”不良債権”を一気に集めた感じで、債務能力のない借主を増やしたことになってしまった。

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「”不良債権”を集めるこのCMをやめないと、うちは倒産する」となって、全米銀行連盟にフィルム原版を売り渡した。そこで全国民が観ることになり、このテレビCMが皮肉にも有名になった。

 

クライアントが、CMを他へ売り渡す前代未聞のことが起こった。クライアントのニーズに最適のCMをつくれなかった”メールルームから来た男”には、相変わらず冷たい風が吹き続けた。

 

しかし、彼のがんばりを注意深く観ている人々もいた。不遇を囲って6年、オグルビー&メーサーから西海岸事務所を立ち上げて欲しいと依頼された。

 

事務所も軌道にのった後、レーガン大統領の2期目の再選キャンペーンを、彼が担当することになった。現職のレーガンにとって”安定的な明日”を感じさせる表現が求められた。彼のコピー”MORNING IN AMERICA"には、動き出した朝の人々の活力と、新生するアメリカを予感させる2つの意味が込められていた。史上最高の大統領選CMとされ、2001年に広告殿堂入りをした。

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ちょっと見ただけでも、彼がつくった広告は、生活する人の目線に立ち、どこかやさしい顔つきをしている。

 

晩年に制作したGMのサターンのデビュー広告も、主人公はクルマではなく、乗る人だった。

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デトロイトの大量生産ではなく、テネシー州で生まれた人にやさしいクルマとして描かれていた。

 

カンヌ審査委員長の依頼を(1国の広告を21カ国の国際基準で審査されるべきではないと)断った厳格なリー・クロウですら「ハル・レイニーは、広告の見方を変えてくれた天才だ。私にとって、最高のインスピレーションを今も与えてくれる存在」と称賛している。

 

いばらの道を歩いてきた男は、会社のメールルームで働く人々に、ねぎらいの言葉をかけるのをきっと忘れなかったと思う。厳しさの中の、やさしさの大切を知っていたからだろう。

 

 

 

 

 

 

好奇心はミルクだった

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少年たちの友情を描いた”スタンドバイミー”という映画があった。このような体験をした大人たちはたくさんいると思う。私もそのひとりだ。

 

「怪しい男が悪いことをしたら交番に知らせよう」と、少年探偵団をつくって、街の怪しい男をつけたこともあった。しかし、さあこれから悪いことをするぞというそぶりをあからさまに見せる男がいるわけもなく(怪しげな男が、信用金庫に普通に入って行くのを見て、終わった)。

 

かっこいいクルマを見つけては話し合った。後の部分が木でできた細長いクルマ(後日、モーリスのステーションワゴンだとわかった)に興奮していた。しかし、いつかこんなクルマに乗りたいと思う向上心もなく、ひたすらほめていた。物欲も所有欲もなく、路上を走るひとつの形状を賛美するだけで、満足していた。

 

関西の小学生にとって、リュックを背負って行く京都は、立派な冒険旅行だった。お腹がすいて、「ここはきっと美味しそうだ」と、食事処に入ろうとしたら、「あんたら、ぶぶ漬けでもどうどす」とお店から出てきた中居さんに拒絶された。小学生のプライドを傷つけられて「ぶぶ漬け、食べる」と言ったら、友達が飛び上がって止めに入った。何をおそれているのか、よくわからなかった。

 

いたずら心と好奇心、それだけで毎日が動いていたような気がする。

 

京都大学の先生と友人が「たこ焼きは、どこまで大きくできるか」という論文を書いたそうだ。結論ではなく、子供のような好奇心を失わない大人がいることに興味を覚えた。

 

一方、楽しくて効果的な広告は、小学生のいたずら心と好奇心でできているように思える。バイラルとか難しいことを考えず、子供の視点でつくればいいと、多くの制作者が気づいている。

 

プロの制作者ではなく、素人発想の方が効果的だと考えたのが、コーンチップスのDoritos。ユーチューバーに広告を企画させることを考えた。担当の広告会社BBDOからは猛反対されたが、押し切った。結果は好評、2006年以来、いたずら心旺盛な企画が続いている:

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巨大たこ焼きへの好奇心の答えです:

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”好奇心は、猫を殺す”というイギリスのことわざがありますが、好奇心もほどほどにしないと、広告制作者になってしまうかも。

 

と言うより、今年を期待させるブランド広告がたくさんデビューする「箱根駅伝」を観ていても、好奇心やいたずら心のかけらも見られなかったのは残念だった。