広告は逆風
開高健の「輝ける闇」「夏の闇」を読み返している。作家が晩年、なぜ「闇」を描きたかったのか。先が見えない混沌の中で解を見いだせない不条理を描こうとしたのか。ベルトリッチの映画「ラストタンゴ・イン・パリ」のマーロン・ブランド演じる絶望男のはかない恋が、モチーフにあったのではないか。あるいは、ヘンリーミラーの「北回帰線」の傍若無人な主人公を重ね合わせながら再読している。
「夏の闇」に登場する女性はフィクションではなく、実在すると、妻で詩人の牧羊子さんが第六感を閃かせ、好き勝手にさせないと、茅ヶ崎の作家の仕事場の別棟に移り住んでいたという。
作家は、ジンギスハーンの陵墓捜索プロジェクトを読売新聞に提案し、自らも参加した。鈴虫の鳴き声だけの長いモンゴルの夜の慰みとして、同行の男に、作家への弔辞を述べさせた。「それじゃ、私が死ねんぞ」と、幾夜も執拗に続けたそうだ。薄気味悪いが、自分がどれだけ理解されているか、自分がどう見られているか、そんな主体と客観を通して、自己を探りたかのだろうか。
モンゴルの渓流では日本では幻のイトウが入れ食い状態だと聞き、サントリーローヤルの撮影を敢行した。作家は無類のルアーフィッシャーだ。ロケハンでも現地報告通り、イトウは入れ食い状態だった。しかし、撮影の前日に上流で大雨があり、流量が大幅に増し、イトウは川底にへばりつき、撮影当日の釣果はゼロ。作家がイトウが釣れることを夢想するプランBのCMに仕上がった。
作家は「なるほど」という言葉を嫌った。納得しても、何か意見があるだろう。「なるほど」は、あらゆる思考を停止させる毒だと作家は言った。(以上、作家の世話人の方々からの伝聞であることをことわっておく)。
作家は、「闇」を通じて、漠としたものを漠として描き、結論を急がなかった。作家が探訪したアマゾンのように、一条の光も射さない暗闇がある、そんな小説があってもいいという作家の意図があったのではないかと思う。
世阿弥の「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」の境地、目立たせるのではなく、気づきを啓発した小説という見立てもできる。説明しないミニマリズム。読者の知性を信じる。これは、良質の広告が希求する到達点でもある。
ナイキの企業ミッション「世界の全ての競技者に、インスピレーションとイノベーションをもたらす」を標榜するCMには、スポーツ競技者を増やす啓発が行われている。自社製品を推奨する野暮なメッセージはない:
切り取り方に共感があり、気づかせる合理的な仕掛けを感じさせる(2014)
愛情表現としての保険がある(1996)
目立たせるのではなく、気づかせる。広告臭のない表現が理想だ。生活者の知性を信じ、さりげなく納得感のある広告づくりをすることに対して、もっと明確に強いトーン&マナーが欲しいなど、クライアントからの風当たりは強い。プロデューサーは額に汗をかき、妥協案を出し始める。作家でもないクリエイターの良心が揺さぶられる時でもある。この逆風は永遠であり、いまや強風になっている。